雑感(日記)

自分でなにかのために翔ぶ

いつもの思いつきの駄文です。読んでも意味ないです。

珍しく外山 滋比古の「大学まで出ても、考えたことがほとんどない人々の運命」という記事を読みました。
久しぶりにこのひとの名前を見た気がします。亡くなった大江健三郎氏同様、今は珍しい碩学の人です。

このインタビューの中で私が感銘を受けた言葉は「忘れてならないのは人間が本来、考える力を持っていることです。」人は誰でも子供のころはなにか考えていて、それに夢中になったものでした。
考えることは人間の属性といってもいいのではないでしょうか。

考えることをやめない

成長するにつれ周りから自分に足りないことばかりを指摘され、だんだんモノを考えなくなっていきます。
子供のころはそれしか知らないし、親の期待をはずれるとなにをされるかわからない子供なりの生存本能がありますから、あまり逆らえません。
なにより常識など他人が考えたとおりに振るまっていれば、恥をかかなくてすみます。
この学生時代に身に着けた思考と行動様式は、就職してどこかの企業に入るとぴったりマッチします。
エライ部長や取締役という教師のような存在がいて、自分たちはいつまで経っても生徒。
たまに学級委員みたいな感じで課長がいる感じでしょうか。
会社の常識に従って行動していれば問題は起きず、つつがなくお金をもらえます。
「すばらしい成果」とは目的の線の上にあるものだけが評価されます。

なにか新しいことを会社がしなくてはいけなくなったら、会社が「この研修に行ってきなさい」と命令するからそのとおりに行動します。

10年以上、そうやって忙しく過ごしていたら会社の役割と自分の生活の境界線があいまいか、消え失せておかしくはありません。

でも人は自分の関心の方向というものがあります。

子供を何人か同じような環境で同じように育てても、関心の方向は違います。
自分の奥にある声を黙殺するのか、少しでもそれを知ろうとするのか、が人生を分けている気がしてなりません。

考えることを諦め、現実に背を向け、スマホばかり見て、スマホに反応するしかない人を見ると悲しさを私は感じます。

自分語り

よく、インターネットでは「そんな自分語りは自分のブログにでも書いとけ」と言われますが、そうします。

私は20歳代はエンジニア志望でした。文系といえども大学でコンピューターを始めて使い、FORTRANを覚えました。数値計算のごくごく初歩を学びました。
日本IBMでなぜだか銀行のオンラインのテストをする部門に配属され、いつも夜中に働いていました。他の人は見ちゃいけないIBMのメインフレームのソースコードを大量に読み、いつしか自分もアセンブラーでテストツールを書きまくっていました。面倒くさいアルゴリズムも理解しないとプログラムがなにをしているかわからないので、学びました。

後にシステムインテグレーションでもプログラムを書き、「売り物になるプログラム」を学びました。日本IBMで売り物のプログラムを書いていたエンジニアはとても珍しいと思います。当時、金融のフィールドでは私くらいで、他は研究所くらいだったと思います。
完全なシステムヲタクで、このころよもや後にビジネスをやるようになるとは考えもしませんでした。
それでもお客さんにはかわいがってもらいました。

しかし疑問が生じたのもエンジニア全盛期でした。
当時のシステムインテグレーションではこういうことを言っていました。
「ひとつのお客さんでお客さんのためのシステムを作る。同じ業種で必ず似たような要望がある。そこで再度、作るならば最初の工数よりはるかに少なく作れるはずだ。システムインテグレーションをたくさんやって経験値を高めよう」
今、考えるとERPの原型のような考えです。
しかし何年たっても社内のスキルがアップしたようには思えませんでした。確かに業界の知識は大事ですが、それと個別のお客の要求は別で工数が減ることはありませんでした。
社内のスキルより、プロジェクトマネージャーの力量のほうが重要になりました。

こんなことを関連会社の社長に言われたこともあります。「お前が製品作ろうとしているのはわかる。しかしウチのエンジニアを出すには予算が足りないから、数件の客の契約書をもってこい。」
他の会社のエンジニアを雇ったほうが安くてスキルが高いのに、高くて初心者のエンジニアを使って仕事をしていただき、教えました。この製品で彼らは数億円儲けたはずですが、うまくいくと知らん顔です。
同じことは当時のDB2にもいえました。どう考えてもOracleのほうが安い、高機能。
それでも営業は自社の製品を売るべきだという理念から、一生懸命DB2を売り込んでいました。

このあたりから「コンピューターを使うビジネスとは」ということに関心を持ち始めました。

長くなるのでここで辞めますが、言いたいことは誰でも疑問をもち、それを追求して答えを得たいと思うのではないでしょうか。たとえその時に答えがでなくても疑問は持ち続ける。

毎日、会社で必要な仕事だけをして、後は遊ぶことしか考えていない後輩はたくさんいましたが、そういう人は定年までいても、専門のプロのレベルには到達しませんでした。
「知りたい」という欲望がわかない仕事をするべきではないように思います。

大きく考える

ビジネスの最初は普通は大きな考えから始まります。
もちろん、すでに存在するビジネスをマネるという方法も否定しません。
宅配便のようなことをする、ちょっとしたITコンサルを周囲の人にする、老人のためになにかをする、など小さな需要が読めるビジネスから始めることも大事です。

が、この小さなビジネスですら「人にありがとうといってもらえる仕事」であることに気づいてください。

「なにか金儲けはないかな?」

とビジネスを考え始めると非合法か、他の人がすでにやっているビジネスしか出てこないのです。考え方があべこべなのです。
フランチャイズなんて最たるもので、いかに儲かるか書いてありますが、本当ならば自分で銀行からカネ借りて支店を増やしたほうがいいに決まってます。
なぜフランチャイズという制度を取るかというと、店を出す地域で儲かるかどうかわからないというビジネスリスクを一方的に押し付けたいからです。

このようにビジネスには「リスク」というものが存在します。

しかし、私は思います。
この「リスク」の正体は「時の運」なのです。


この写真は昭和に大流行した「玉すだれ」というのれんのようなものです。
今、考えるとなんでこんなものが大流行したのかさっぱりわかりません。
しかし「玉すだれビジネス」は当時、流行し、バカ売れし、やがて市場から消えていきました。

私が小さいころ、あちこちの家にたしかにありました。
玉すだれを売っていた会社の人は単に商品のひとつだったことでしょう。
なんの思い入れもなかったはずです。
その証拠に今のecサイトを見てください。どのサイトも商品への愛着など感じません。メーカーのウリ文句を載せ、メーカーの写真を載せ、価格だけが違う。
これはビジネスではありません。サラリーマンがやっている流れ作業です。
こんな「安いから買ってよ」というメッセージしか発信しないで会社は成長するでしょうか?

一方で、玉すだれの考案者が誰かはわかりません。しかし彼・彼女はこれが素敵だと信じて作ったのです。家をかざるのにいいと思ったし、周囲の人も「当時は」なぜかそう思ったのです。
そこにはなにか「他人のための思い」があります。

このように多くの人に受け入れられるのは、時の運である以上、アイデアは捨てずに温めておくべきです。いつか孵化することがあります。

なにかのために翔ぶ

人のためではなく、自分の思いを実現するために働く。
「どこか条件のいい再就職先はないか」とはいくつになっても人のために働くことしか考えていないということです。

自分の思いを実現するために働くと決めた時、多くの場合はビジネスです。
もちろん人の思いは多様性に富んでいますから、既存のどこかの会社で実現できるかもしれません。

人によっては、やってきた会社に別れを告げ、自分の思いのために働くこともあるでしょう。
それを「翔ぶ」と言ってみました。

若いころは食べるため、家族を養うためにやりたくないこともするでしょう。
私もそうでした。派閥争いに破れ給料を下げられてしまった時、家内から「ウチはこれだけかかる。この給料ではやっていけない」と請求書のようなものをもらった時はショックでした。私はATM失格ということだったのでしょうか。

それでも長い間、自分の思いを育てているならば、なにかに出会い、人生に残された時間を自分のために使いたいと、私は思います。

関連記事

  1. 難しい貧困問題

  2. やっとこさ入手したD-212EX

  3. 梅雨の終わらない8月

  4. 中国脅威論と戦後70年

  5. 日本の労働市場の異様さ

  6. 木村花さんは残念だった

  7. 自炊って知ってますか?

  8. ウィルスの怖い話