雑感(日記)

なにを愛と呼ぶ?

なんか歌のタイトルみたいですが、いつものダラダラ話です。長いです。
なんでこんなものを時間かけて書いているかというと、思考はあっという間に頭から消え去っていくから、つなぎとめていたいからです。

 

すごくよく使われるけれども、よくよく考えたらわからない言葉ってありませんか?

人生で、私にはよくわからない言葉は「愛」です。今でもわかっているのかあやしいです。

いきなり主観から話を始めると不安になるので、恒例の辞書を見てみます。
– そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持。
– 男女が(ジェンダー問題は理解のために置いておきます)思いあう。親しみの心でよりかかる。

というところが一般的に認められるようです。このふたつ、全然違うこと言ってますね。

これをふまえて主観的な話を書きたいと思います。

私が学生といわれる時代は1975年くらいから1985年くらいだったように思います。[若いころ]というと、もう少し伸びて2000年くらいまででしょうか。
社会学的な言葉で言えば、高度成長期の余韻、バブル、バブル崩壊後ということになります。

私の若い頃の流行はずーーーーっと「恋愛至上主義」でした。
ユーミンもサザンオールスターズも恋愛しか歌っていない。
たぶん、電通が若者の消費活動を仕掛けるために打った戦略だったのではないかと思います。
だって、恋愛についてどれだけ語られ、どれだけ若者は消費していたかわかりません。
その消費は小金をもっている親に支えられていました。車を買ったり、今考えたらダサいプリンスホテル系でディナーするとか、ファッションなどに費やされたのです。

今の日本のように、生き伸びることが最優先=貧困の足音が忍び寄っている場合は考えられないことです。
恋愛至上主義により、マニュアル雑誌で同じ価値観、服装、ライフスタイル、余暇の過ごし方をしていたのです。まだポパイなんて生き残っているのが不思議です。
バリエーションは商品のバリエーションくらいの範囲内に収まっていました。
まぁ、それでみんなが幸せ=愛を感じられたのです。

ライフスタイルが同じことは「なにも考えなくても生きていけた時代」ということです。
雑誌、小説、テレビ、ドラマが煽るまま恋愛めいたことをし、ちょっと胸がときめいて錯覚し、周囲に聞きまくって結婚し、子供ができると周囲に聞きまくって子育てし、その間も周囲に聞きまくって同じような余暇を過ごす。
多くの家庭が「他の人もやってるじゃないの」と多数が正しいと思い込んでいても、やっていける時代でした。

もちろん私のような変わり者のオタクは生きる場所がなく、なかなか辛い状況でした。

一方で団塊の世代が学生運動で暴れたせいで、年寄と生き残ってサラリーマンになった学生は日本に「偏差値教育」というものを大流行させました。個人的に文科省の宣伝方法は恐ろしいと思います。どこからともなく、方針が出てきて日本中に徹底されるのです。

偏差値教育のなにがまずいかというと、考えることを止めさせるからです。別名「詰め込み教育」ともいいます。国語算数理科社会の成績で進学が決まるので、それしかまともに勉強しない。ついていけない多くの子供はすっかりイヤになる。教養のために本を読むなんて暇もない。

おかげで圧倒的多数が教養からこぼれ落ちています。確かに字は読め、四則演算はできますが、そこまで。歴史は知らない、算数でなく数学はダメ、英語は嫌悪感だけ、物理法則なんて高いところから落ちたらケガする程度が普通じゃないでしょうか。おカネに関してはなにも知らないまま。
高校レベルの知識を維持している人はマレで、テレビ番組は小学校4年生、つまり自我が出てきた子供がわかるようにしているそうです。

同じライフスタイルと偏差値教育で差別してできあがった結果は「モノを考えない大人」です。

モノを考えない大人と「愛」がどういう結びつきがあるか説明する前に、「思いやり」について書きたいと思います。

 

アカの他人と他人が知り合う時に必要なものは「礼儀」だと思います。
どうやれば相手に悪い印象を与えないかの答えは「礼儀正しくふるまえ」ばいい。
礼儀は好意などとまったく関係ない知識に基づく動作ですが、それでお互いに悪意はもてないことだと我々はしつけられています。
今後の関係もあるから、みんな猫をかぶります。

逆に、知り合う必要のない人への態度にこそ、その人の本質が出ます
つまり「思いやり」をどれほどアカの他人に示せるか、です。

利害のない知らない他者をどれくらい思いやれるか。
それはその人がひとりでどれくらい考えたかを示しています。
その証拠は枚挙に暇がありません。

  • 見知らぬ人に席を譲る。vs. カレシのために電車に走って乗り込み、二人分の席を確保し「ここよ」と叫ぶ。
  • 通勤で隣の人が倒れそうなのを見て、吊り輪を譲る。vs. ちょっとしたことで通勤時に喧嘩をする。上司同僚には絶対に言わないような暴言を吐く。
  • 飲食店で店と客のあるべき振る舞いをして快適に過ごす。vs.「客は偉い」という日本人固有の錯覚を店側に押し付け、自分さえよければいいとする。

ちょっとだけ集めてみましたが、いかがでしょうか?
「思いやり」ってその場限りではなく、時間をかけて人と自分の関わりを見つめた人にのみわかることなのではないかと思います。
なぜならば、他者への共感と理解なしには、とうてい成立しないからです。

いつも友人と群れて「友達が、友達が」と言っている人間に孤独な時間の成長はとうてい望めません。
しかもその「友人」とやらはいつしか裏切ってどこかに行くんですけどね。

だから「思いやりをもちましょう」って簡単なことではなく、簡単に言っている人が本当にもてているのか、私は疑います。

で、思いやりって愛の前段階じゃないでしょうか?

 

もちろん愛には冒頭の定義どおり「男女が思いあう。親しみの心でよりかかる。」もあります。

これは簡単な愛というよりも恋という言葉のほうが正しいのではないでしょうか。
恋は性欲と他者へ見せびらかせるかで決まります。
さらに言うならば男女の愛は、お互いがお互いの中に自分の一部を見出しているに過ぎません。
なぜならば異性への好みとは、自分の内部の欲求の投影だからです。
「◯◯さんこそを愛する」なんて大ウソです。手放したら似たような人が手に入らないと思うから固執しているに過ぎません。
幸運なことに、好みの相手が自分に反応してくれたからこそ、恋は成立するのです。

臆病な人、相手のことを考えすぎてしまう人にとって、恋は難しいことです。
ですから、昔はお見合いっていう便利な制度があって、それに助けられた二人はすごくいたのですけれどね。

冷たく書いてしまっていますが、本当の愛が始まるのは普通の人は結婚後に生活という試練がかかってからだと考えているからです。

奥さんや旦那さんと恋愛した熱は誰だってしばらくすれば冷めます。冷めないという人はよほどセックスの相性がいいのだと思います。じゃなきゃ、だんだんお互いのことをクールに見つめる時が来ます。
そこで思いやり以上の感情を持つことで大人の愛を知るのではないでしょうか。
自分本位の人は、離婚や別の秘密のパートナーを探すでしょう。

そんなにヒートアップもしていないけれど、相手を見つめ続ける、価値を見出しつづけ答えることが愛なのだと思います。
もちろん幾多の空振りもあったはずです。喜んでくれると思ったらがっかりされた、いや怒られた。影で頑張ったのになにも言ってくれない。
帰ってくるものがなくても関係をやめようと思わない。

そうこうしていると、子供ができちゃったりします。
不思議なことに人間の子供って生まれた直後はなーんにもできません。哺乳類の動物って生まれたらすぐにあるき始めるのに、人間の子供はそれすらしません。おっぱい飲んでるか寝てる。排泄物は垂れ流し。

なんにも報酬はないのに親は一生懸命育てます。笑った、泣いた、かわいい、を自分への褒美にして、親は悪夢のような最初の100日間をなんとか乗り切ります。

それからも子供は自分のことしか考えず、親は温かい目で子供を育てることになります。

親が人間としていろんな経験、多様な価値観を理解しているほど、子供のいうことを受け入れることができます。どんな生き方もあるし、その先がどうなるかも知っている、どうすれば生きていけるかもしっていれば、子供をくだらないことで矯正しようとか、自分の思い通りにしようとか考えず、したいようにさせます。

自分が生活するだけでも楽ではありませんが、親というものは「できるだけのことをしてあげたい」という無限のゴールを自分に課して苦しみます。

そうやって子供は育ち、親元を離れ、彼、彼女の人生を作り始めます。

子供の成長とクロスオーバーするように、人は知識と生活に余裕ができると社会を見始めます。

「こんな社会になってしまった」「自分ができることをやりたい」と心から願うようになります。
社会がいいと思わなくても、自分の周囲など目に見える範囲という現実をよくしようとします。

具体的に仲間を見つけてボランティアしたり、NPOしたり、社会起業したりしはじめます。

 

ここまで人の一生を書いたとお思いでしょうか?
いえいえ、普通の人の魂の成長と、愛とはどのように育つものかを書いたつもりです。

逆を考えてみればわかりやすいかもしれません。今の世の中は「男女の愛」しかあまり認識されていません。流行歌のせいでしょうか?

男女の愛を愛だと勘違いしセックスし、子供ができたとたんに、愛のあるはずだった男はどこかに逃げます。

女性はよくわからないまま子供を産んでしまいますが、なにもできない赤ちゃんや幼児は悪魔にしか見えません。暴力を受けて育った人は暴力を振るうし、イヤなものからは逃げてきた人は家に子供を放置したまま遊びに出かけます。子供は施設に預けられたほうがまだマシだったりします。命の危険は回避されるのですから。

運良く育った子供も、親のアクセサリーとされることも少なくありません。ブランド者を着せられ、有名な先生のところにお稽古ごとに行かされたりします。
可能性ないのに、親の見栄で塾に行かされている子供がいかに多いことか。

高校生くらいになると、文科省のキャンペーンにこれまた騙されて、どうでもいい大学の経営を助けるために大学に入り、奨学金という教育ローンを組んでしまいます。親もお金について無知なので、止めません。

多くの人がやっていることは間違いなかったはずなのに、所得の低さや教育ローンに苦しみます。

男女愛ではない愛を知らないまま育つ人が多いのかもしれないな、と思います。

 

私も偉そうなことは言えないどころか、こんな文章を書いてしまうほど愛がわかっていないのです。

毒親に育てられました。だから直接、親の愛というものを知りません。
子供のころの記憶はささいなことを理由に殴られた時の血の匂い、痛み、わからない社会への恐怖、この世で誰にも頼れない孤独をよく覚えています。
でも、祖母や、親戚、社宅の周囲の人、が時々くださった思いやりや愛が身にしみました。
お金はなくても、思いやりをいただけると人の心は生きていけるのです。
何度、すっかり日も落ちた道端で泣いたかわかりません。
子供のころしばしば考えていたことは、大人になるまでにあと何百回、泣かなくちゃいけないのだろうということでした。生きることは辛すぎると思いました。
いまだにモノを集めるということができません。好きなものをいくつか集めると、必ず難癖をつけられ取り上げられ捨てられた記憶が強すぎ、集めたものはなくなる、と心のどこかで思っているからです。
他の人が動かせる心の方向に、私は制約があります。

大人になって、多くの愛を知りました。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見て慟哭したわけは、愛を知っていく主人公にものすごく共感したからです。

そして年を取りました。

人はこの世を去る日数を数えられるようになると、自分のためよりも、
自分なりの社会への愛を置いて去りたい、と考えるのだなと
愛をよくわかっていない私ですら、実感します。

 

 

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