私はもともとコソコソ動いているのが好きで、ボーっとするということが普段はありません。
それでもって「問題を先送りにする」ってことが大嫌いなので、人には「腰が軽い」「こまめ」「ゴキブリ亭主」と言われることも多々あります。
日曜日に犬のゲージを買い換えたら、月曜日には清掃工場に以前使っていたゲージをゴミで持ち込むような生活をしています。
用事の在庫を減らして、いつでもラクに死ねるようにしている、、、なんてのは嘘です。
私のようにコソコソ動いてしまう人は多いと思います。
ただ、そういう私でも日々、同じようなことをし、代わり映えのしない環境にいると、
「マンネリ」「閉塞感」「飽きる」ということを時々感じます。
休日に多少、数時間休んだり、買い物行ったり、映画見たりしても、こういうマンネリ、閉塞感はなくなりません。
海外旅行を計画してはいても、出不精な私は未知のものにあう期待よりも、メンドクサイ感のほうが強かったのです。
しかし、今回、バリ島に3年ぶりに出掛けて思ったことがあります。
これは昨年、イタリア旅行した時には感じなかったことです。
なにかというと
違う環境に身を晒すことで、違う考え方ができる
ということです。
旅行好きの方には「当たり前じゃん」と言われるかもしれません。
私は、あくせくすることが、目的に近づくことではない、と深いところで悟った気がします。
人は極論から極論に判断する人が多いので、確認しておきますが、
やるべきことはやるのです。
でも、1から10まですべてを計画、管理し勧めていくという方法は違う、と知ったのです。
以下はあくまでもたとえであって、文化論ではありません。
たとえばこれが日本の公園の道。
これがバリ島。
精度が違います。
で、私は公園の快適さにおいて大差ないと感じます。
しばしば私達日本人は、トラブルをとても嫌います。
人によっては製品に瑕疵があると、気が狂ったように怒ります。
(そういう人に限って、よくよく聞いてみれば、責任ある仕事、モノを作ったことがない人がなん人なんですが)
iPhoneを携帯ショップの店員が白手袋をして開封したり、車や家具の納品時に0.2mm程度の傷でもイヤだという病的に完璧さを期待する考えはどこから来たものなのでしょうか。
それが昂じたのか、人の手が握ったおにぎりが食べられないとか、世界のどこにも生きる場所がない病的な人間が普通にいるのが日本です。
同じ環境でずっと過ごしていると、それに違和感がわきませんが、違う考え方でやっていけていることを見ると、違う考え方からものごとを見ることができます。
違う考え方をすることは、違うことを引き寄せます。
同じ環境に閉塞感がある時は、たしかに異質な現実にひたることは(メンドウなんですが)意味があるな、と実感しました。
そのリフレッシュ感、違う感覚をいつまで保てるかは難しいですね。