いろんなところで無責任な批判記事を読んでいて、すっきりしない数年だったが、スパっと俺の苛立ちを解決してくれた記事がありました。“消費の時代”から“生産の時代”へ
「文句があるなら、やってみせろ」
まさにインターネットの言葉だ。ブランドを詳しく知っている。流行を知っている。そんな「◯◯◯を知っている」はインターネットの時代では意味がない。ググレカスの意味がわからない人に有効なだけ。
いまどき「知られざるブランド」なんて言ってたら、アマゾンの密林の奥地にある怪しげな精力剤なみの胡散臭い話しである。
俺のいる職場でも「あれは、こうじゃなきゃ。これは、こうじゃなきゃ」とステレオタイプな言葉をデカイ声で叫んでいる人がいるが、それが頭が悪そうに見えるのはそんなことは知りたければ誰もがググル時代だからだ。
周囲の人が「あー、そうなのぉー」なんてあわせているのを見るとオンナって偉いな、と思う (閑話休題)
テレビの番組がほとんどつまらないのも、「そんなこたー、知ってるよ」だからではないだろうか?逆にYOUTUBEを垂れ流す番組って、嗤うしかない。
評論家が偉そうな顔が出来た時代は短い。一昔前、大学入試で頻出した小林秀雄が批評という分野を確立したというが、くだらんわかりにくい文章だからこそ、大学入試に出まくったわけだし、大量に英文で情報を得られる今、浅薄な批評は本当に色褪せて見える。
そう。いまや批評だけしても、なんの価値もない時代だ。
偉いのは「やってみた」人。やってみれば、いろんなことがわかるから。料理を食べて偉そうにしていられた「料理の鉄人」の時代から、料理を食べているだけではモコミチにすらなれない「アイアンシェフ」の時代となった。