この夏の悩みのひとつが仏壇である。いろいろ知ったことを書いとく。
今時の仏壇
家に位牌がいくつかできてしまい、仏壇を買わねばならん、と「お仏壇の○○○」に行ってきた。年寄りを騙すのが得意そうな優男店員ばかりいる。確かに仏壇屋にガッチリ元気な人間はそぐわないかもしれない。(墓の営業は、そういうタイプが多いように思うが。)
我が家は狭くもないが広くもない。それでも、
おいおい、仏壇をどこに置くんだよ、
あの和室の隅はどうだぇ、
いやぁあそこは人目につくからねぇ、仏壇なんてものは若い人に見せるもんじゃーないよ、
そうだねぇ、
なんて、落語の熊さん、ハっさんのノリで考えながら見に行った。
外見はまるで、なにか家具。
なにかわからないところと、これ以上の場所を必要としないところが素敵。
仏壇の魂
さて、仏壇を買うと「仏壇に魂を入れる」という言い方をし、お坊さんを呼ぶことが多い。が、これは仏壇そのものの話ではなく、中のご本尊の話らしい。家の場合、諸般の都合上、引き継いだ阿弥陀如来がおいでになるので、とくに新たにいろんなことはしない。
仏壇の数
宗派ごとに仏壇の構造は違う。浄土真宗がおそらくもっともきらびやかである。(真言宗はお寺さんはドハデだが、仏壇は質素なもんだ)
私の家は真言宗で、家内の家は浄土真宗なんだが。じゃぁ、おまえと俺は入る墓も仏壇も違うってこった!
とはならない。どこの旧家でも特殊な事情がない限り仏壇ふたつという家はないと思う。もともと縁のあったご先祖様を守る場所が仏壇である、というのが第一義である以上、宗教の違いなどにこだわるのはいいとは思えない。同じ家から仲良く我々を見守って欲しいもんである。
私のところは真言宗である。これは自分に対する言い訳なのかもしれないが、真言宗では阿弥陀如来はお祭りするので、浄土真宗とケンカするわけでもあるまい、と思っている。(まぁ、密教の阿弥陀様はお座りになっておられ、浄土真宗の阿弥陀様は立っておられることが多いけどね)
上で、仏具が宗派色のないものにしたのは、そういうわけである。
合掌