雑感(日記)

宗教を語る人・語らない人

多くの人は宗教について知らないか、科学的でないとバカにします。

でも私はそういう態度を疑問に思います。
というのも、それ自体が宗教よりひどい態度だと思うからです。

はじめに私の立場ですが、真言宗徒です。
考え方は真言宗に大きく偏っていますが、伝統的宗教に入っている人の意見はあまりないと思います。

人間の頭脳の及ばない範囲

真言宗の開祖 弘法大師は「即身成仏」を提唱しました。秘密の意味もありますが一般的には、お経を読んでいるだけではだめで修行という行動をせよ、ということです。そうすると今、このまま仏の境地に到ることができ、経文を読んで理解する数千倍の速度で悟りにたどり着くということです。天台宗開祖の最澄が最初はお経を読んでばかりいて、弘法大師から理趣経を借りようとした時に弘法大師は拒否しました。この時、最澄に返答した手紙に読んで理解するだけでは理趣の教えは理解できないと解説されています。(参照

禅宗という宗派はありませんが、臨済宗に「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。
これも理屈でなく体感しないとわからないことがあるという戒めです。

確かに人類は理解することで文明を進歩させてきました。
それでも考えて理解するということは誰にとっても最強の武器というわけではないのです。

例をあげます。
数学には「証明」という方法がありますが、最先端はすでにほとんどの人や数学者でも理解できない段階に差し掛かっているようです。 京都大数理解析研究所の望月新一教授らが「宇宙際(うちゅうさい)タイヒミュラー(IUT)理論」を拡張し、フェルマーの最終定理を証明したとおっしゃっていますが、ほとんどの数学者がついていけません。

量子力学が発見されてすでに100年超えていますが、多くの人がいまだに確率論がわかっていません。たとえば運命などを決まったものだと考えています。時間は一本の線のように過去から未来に流れると考えています。どれもアインシュタインの相対性理論、量子力学とその実験で否定されている考え方です。

これらが証明してしまっているとおり、多くの人が理解できないということは、人によってはすでに「頭脳の及ばない範囲」があるということです。

科学も行き過ぎると宗教となる

自分は理解できないけれども、どこかの誰かが理解して正しいとしているから、「科学的に正しい」って科学的態度ですか???
どこかの誰かを信じている時点で宗教と変わりません。しかも臨済宗の不立文字の意味の裏を返せば「自分で悟れ」ということです。

1991年に亡くなった学者に関英男という方がおられます。若い時は電波工学で多大な業績をあげた方ですが、1970年代からオカルト理論に傾倒し、太陽の表面温度は26度だ、などと言い始めました。
そのことについても議論はあるでしょうけれども、問題は周囲の人です。「関先生がおっしゃっているのだから正しい」と言っていた人がたくさんいました。

こうなると関英男氏を教祖とした宗教としか言えません。

宗教を比較する人の愚かさ

基本的に仏教には神はいないということをご存知でしょうか?
お釈迦様は涅槃の境地に至る道を解きましたが、神について話しませんでした。
それどころか亡くなる時には「自灯明、法灯明」とおっしゃいました。
自らを灯火(よりどころ)とし、他を灯火(よりどころ)とするな、私の説いた法を灯火(よりどころ)として、他人を灯火(よりどころ)とするな。ということです。

もともとの仏教に神はいないのに「私は神を信じないから」とは無知に過ぎます。

さて真言宗には大量の神様がいます。最高の神様は大日如来です。しかし大日如来は人格神(人間の形を取った神様)ではありません。大日如来はこの世の原理を指します。同じ考え方はヒンドゥー教の最高神ブラフマーにもあります。仏教とヒンドゥー教が出会った結果、発生した宗派が密教だからです。(厳密にはいろんな意味で違いますが端折ってます)

一方、ユダヤ教やキリスト教は一神教と言われています。一神教の場合、神様が人間を作ったことにはなっていますが、神様は人間が嫌いらしく、人間と契約をし、さまざまな試練を与え達成できないと怒ります。
サポートの天使はたくさんいます。キリスト教から派生したイスラム教にも神様と天使がいます。

これらは開祖が言葉にできない世界をどう捉え、どう説明し、生きていく指針とするべきなのかを考えた結果です。
したがって、比較することに意味がないのです。個々の考え方の体系をそのまま受け入れるしかありません。それが信仰です。

にもかかわらず、「あの宗教はこうで、この宗教はああで」と論評している人を見かけます。それは「俺は釈尊やイエス・キリストやムハンマド(モハメット)よりも賢いから考えればわかる」と言っているようなものです。
悟りの境地は考えただけでは到達できない、理解できないと開祖達が言っているのに市井の一般人がなにを言っているんだか、イタイ発言だと私は思って聞いています。

なにを信じろとは言わないが自然を畏怖するべき

釈尊の解いた仏教に神がいないように、別に神様を信じることが宗教ではありません。

しかし、この世をどのように考えるかは人が生きていく上で避けられません。
昔から人間は天変地異、旱魃、洪水、天候不順、飢饉を恐れ、さらには人間同士の争いを恐れてきました。
たしかに自然の猛威は科学で多くのことが解明されています。

しかし、あなたがその科学の原理を理解しないで学者がそうだと言っているから信じている限り、科学を信仰しているに過ぎないし、自分で悟って(理解)いない以上宗教より悪い、と宗教は指摘するのです。

そうでなくても、例えば量子力学を理解しそこねて「物質の中はがらんどう」などと信じている人がいるのです。(本当は電子が確率分布しています。空洞ではありません)

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