雑感(日記)

キリスト教と信仰

*以下は思い切り宗教や信仰についての話です。そういうのが嫌いな方は読まないでくださいね。

日本史始まって以来といわれている、10日連続祝日の使い方は人それぞれだったと思います。

私はほとんど仕事していましたが、連休のスタートの時に家内と「長崎潜伏キリシタンの遺跡巡り」をしてきました。

家内はクリスチャンですが、快く戸隠神社や出羽三山などにおつきあいくださっているので、今回のキリシタンツアーには私も喜んでついていきました。

長崎の潜伏キリシタンが有名になったのは、明治維新直前の1865年3月17日、隠れキリシタンがフランス人のベルナール・プティジャン神父に長崎・大浦天主堂においてコンタクトしたことによります。
これは「信徒発見」としてキリスト宗教史上の奇跡の1つといわれており、有名な話のようです。
250年間、司祭なしに信仰を受け継いでいたということはすごいことです。
だから世界遺産になったわけですね。
決して、教会建築物が古いからではありません。

我々も日本史で学んだとおり、豊臣秀吉の時代の「バテレン追放令」でキリスト教は禁止だったわけですが、その根拠はイエズス会など宣教師が勝手に土地を所有しようとしたり、信仰をたてに秀吉に逆らったりしたためです。
言い換えると当時の宣教師達は西欧と同じノリで教会の権利を主張しようとしたわけです。
これは強気にすぎます。大失敗ですね。
九州の大名の何人かがキリスト教信者になったため、強気だったのでしょう。

しかし「天草の乱」でキリスト教は江戸幕府に敗北します。

日本が独立を保つために、キリスト教禁止は必要だと当時の為政者達が判断したのは当然かと思います。

信者にも現世利益を説かず、来世で幸せになると教え込むわけですから、イスラム過激派と同様に今生に希望をもてない人々は命をかけて、しがみついたのかもしれません。

宗教の内面を考えずに、外形的に考えるとこのようなことなのですが。。。

長崎の外海(そとめ)というところがあり、このあたりはナント明治の初めまで頻繁にキリシタン狩りをしたようです。

最初は明治政府もキリスト教禁止だったという事実を知り、驚きました。

ここに遠藤周作文学館があります。
遠藤周作は有名な作家でしたが、体の弱いクリスチャンでもありました。
映画にもなった「沈黙」は名作です。

なぜならば、キリスト教をとおして信仰とはなにか?を問う作品だからです。
私も小説は読み、映画も見ました。

いくつか疑問点があったのですが、遠藤周作文学館で「沈黙」について遠藤周作が「若い宣教師が圧倒的なキリスト教の中でのキリストから、異国で虐げられるキリストを体験して考えが変わっていくことも書きたかった」というようなことが記されていました。

そうです。
ヨーロッパに行けば宗教はカトリック、プロテスタントはあってもキリスト教一択です。
その基本的な教義に疑問の余地はありませんし、確固たるものです。
教会は天高くそびえ、キンキラキンの世界です。

その教義からすれば、踏み絵を踏むなどということはあってはならないでしょう。

しかし、なにもない日本で精神的、肉体的な拷問でくたびれ果てた宣教師の前では、飾られていないキリストが姿を現します。

「その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」

キリストは人の弱さを知っています。聖書に伝えられているとおりです。
「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」(マタイによる福音書 26章34節)

長崎で耐えられるだけ耐えて亡くなった方も、形だけ棄教して生きながらえた方も、キリストから見れば同じように十字架を背負った仲間なのだと思います。

さて、「沈黙」にはもうひとつ不思議なことが書いてあります。

「やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまった」

日本は思想であっても取り入れたものを曲げて日本化してしまうということのようですが、潜伏キリシタンの存在がある以上、当たってないのではないかと思います。
ヨーロッパでもプロテスタントが出現したり、世界中でキリスト教の亜流は多数あるのですから。

さて、いつもながら思いますが、そもそも信仰は集団となると、その集団が信仰を曲げてしまいます。

  • 「キリスト」と同じとみなされるローマ法王という絶対存在がいて、十字軍だけではなく多数の戦争をやって殺人の連鎖を作ってきたこと
  • 潜伏キリシタンながら、寺の檀家がなくなるのは困るからと教会に帰らない人々がいまだにいること(彼らを「隠れキリシタン」と呼ぶそうです)
  • 現世をいかにがんばるかよりも来世について甘美な話をし、現世では教団につくすという「投資」をするように誘うこと。本来はその人の精神性を高めることが目的。
  • あれをしていい、これをするな、という倫理面まで教団が口出しすること
  • 神は身近にいるのに、段階を経て聖職者でなければ会話をしてはならないとしていること

信仰よりも人間関係が優先する人間世界において宗教団体というものができると信仰は歪まざるを得ません。

ひるがえって仏教はどうでしょうか。
教団においては同じ問題がありますが、仏教には神様はいません。

仏教をよくしらない人は驚くかもしれませんが、仏教に神はいません。

お釈迦様は真理を解き明かした大先輩であって、お釈迦様はなくなる前に「自灯明、法灯明」(俺が教えた法をよすがとして生きろ、俺を拝むな)と言い残しました。

多くの人がお釈迦様の像を拝んでいるのは方便(さしあたってわかりやすい)なのです。

後年くだって、密教にまで進歩して初めて宇宙を象徴する大日如来が出てきました。

日本でキリスト教を布教する時に、キリスト教の神は大日如来のようなものだという例えをしたようなのですが、大きなミスです。

大日如来は宇宙ですから、私達も大日如来の一部です。
キリスト教の神は人間を作りながら、人間にいらだち、原罪を背負った罪深い存在とし、罰を与える神です。人はひたすら神の哀れみを請います。

違います。

仏教は現世の謎を解き明かすための宗教であって、亡くなってからのことはあまり言わないことになっています。

それでも仏教教団では戒律を作り守るようにいいます。

宗教はピュアであれど、宗教団体は罪深いと私は思います。

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