子供もあらかた大きくなり、
保護者としての役割を終えつつあると、
あらためて自分の父がなにを考えていたか考える。
かつて書いたが私の父は被爆者で、原爆手帳をもっていた。
そうすると私は被爆二世で、
息子たちは三世と呼ぶべきなのだろう。
自覚症状はまったくないけど。
投下直後のヒロシマをどう歩いたかは生前、聞かせてもらったことはなかった。
戦争についてはほとんどなにも語らなかった父だけれど、
小さな染料会社に就職して研究員だった父が大阪で営業に異動になった時、子供の俺はなにも気づかず、大人の仕事なんてどれも一緒に見えていたから
「そうなんだ」
としか思わなかった。
それから数年して取引先のオーナー企業に移って、広島の海岸の工場で10年以上も単身赴任して定年を迎えた。
なんとも思っていなかったことだったが、私も同じくらいの年令になった。
父の心の中の葛藤を想像するに足りるだけ世の中を知っている。
彼の力で転勤はどれほど勇気が必要だったか、
家族のためにどれほど我慢したか。
営業なんてぜったいに性に合わなかっろうな。
でも、他に生きる術はなかったのだろうな。
ずいぶん我慢して働いていたんだ。
俺が東京に就職してたまに帰ると、
どんな話でも「うんうん」とうれしそうに聞いてくれた父。
父が亡くなる2週間前にベッドの前でいろんな話をした。
そして最後に握手をした。
細い冷たい手だった。その感触も生涯忘れないだろう。
その後、父が亡くなった時は俺は危篤の知らせを聞き、帰る新幹線の中だった。
その電車の中で同時に最後の転職先の決断をした。
俺にとってもっとも辛い新幹線の旅となった。
でも、俺は父の死に立ち会えなかったことには後悔はしていない。
その前にあった2週間前のあの時、今生の別れをした、と確信しているからだ。
それでも改めてこういうことを書いていると気づくことがある。
俺が子供になにかを強制することがないのは、きっと父が強制しなかったからだ。
飽きっぽい俺が根気よくやる人に敬意をもっているのは、父が根気のいい人だったからだ。
自分が納得できないことをやらないことは、父がそうだったからだ。
父がこの世を去って7年以上になるが、父は俺の中に生きているとあらためて思う。
お父さん、私はあなたのおかげで生きてこれています。
決して忘れず、時々、思い出すことが死者への最大の供養だと私は思っている。