サラリーマンのふり

革命のなかった日本のおかしさ

最近、産経新聞のネットワークニュースで「番頭の時代」というのをやっています。

例えば日本電産“番頭集団”貫く「永守イズム」の妙 この記事シリーズは日本電産を絶賛しているんだけど、そこで「番頭」の存在が会社を支えると褒めちぎってる。

こういうのが、日本サラリーマンの錯覚だよね、と思います。

番頭といえば謙虚っぽいが、江戸時代の藩制度の家老制度と同じ。

日本はいつから始まった歴史かわからないが、家制度が否定されたことはないと思います。
天皇家を頂点とした家制度が延々と続いたせいで、いまだに「徳川さんの家」とか「旧藩主の家」とか「本家」いうと、「すごい」と思うのが私達の感覚だと思う。
家系図作ると必ずどこかの有名な家からの分家だと書く。

これは日本だけなんだよねー。
およそ他国の歴史は王朝や家があっさりと革命でひっくり返され完全否定されて、次の世代が始まります。
隣の中国だと新しい王朝は旧王朝の家族は殲滅する。

だからこそ、契約や責任がはっきりするのです。
なぁなぁはない。

それにひきかえ先進国と言われる中で革命がなかったのは日本だけ。
だから、家中心の感覚は日本の異常な感覚だということは知っておいてもよいと思う。
天皇陛下が世界中から敬意を表されているというのはよい点ですが、家制度を資本主義にもちこんで自分の生き方を決めることは違う話でしょう。

江戸時代のように家が藩というものになり、政治、経済、福利厚生すべてがかかわった「家」を運営していく上では無限責任に近いから「滅私奉公」は理解できます。
死んでも骨を拾ってくれ、遺族を大切にしてくれるだろう、という取引です。

しかし、革命が起きる世界から輸入した資本主義という制度では責任は有限であり、企業はビジネス(お金儲け)のために存在するだけです。
日本では戦後の高度成長期(1955年から75年くらいまで)の20年間のみ終身雇用制度というきわめて異常な制度が機能しました。
これは資本主義と家制度の融合の試みだったのだと思います。
しかし結果として失敗、もしくは通用しなかったのです。

その夢が忘れられずあれから40年もたったのにいまだに終身雇用制度が日本の本来の制度と信じている人がいます。
家制度から理解しやすいし、収入が努めている会社からだけだと自分の生活がすべてそれで成り立っているというとても原始的な理解をしてしまっているのだと思います。

だから「番頭」の成り手がいるのでしょう。
多くの大企業で番頭はCxxの肩書をもつけれども、経営者じゃないですよね。
経営者が気に入らなくなると、ポンと首。
株をもってないからね。
それでも右も左もわからない大学卒業生が長年会社に勤め、運よく肩書があがり、そのうまみが忘れられないから滅私奉公してしまったのだろうと思います。

もっと自分を大切にしていたら、適当なところで去って自分の城を作るでしょう。
日本企業でどっぷりつかってしまうと、「番頭」を勤められるほど有能でも理性が麻痺するのです。

でもそれは資本主義の考え方からすると、おかしな話になります。

外資系系企業に努めていると、適当な肩書で同種の企業を渡り歩いている人々もいます。
でも本当にできる人は会社を作ります。
イマイチの人はぐるぐる回り続けます。

資本主義を標榜する国として世界とかかわっていくならば、終始一貫したほうが矛盾が起きないし、生きやすいと思います。

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