闇に話してわかるのだろうか?

児童虐待の記事、繰り返す児童虐待に「防波堤」は築けるか? に、しばしば私が感じる闇を感じる。

大阪で二人の子供を閉じ込めてホストと遊び歩いていた下村被告。

厳罰であることは当然だが、裁判で情状酌量とか議論が行われる理由のひとつは、「なぜ、こんな事件が起きたのか?」という面がある。裁判は、被告を法に照らして裁いて終わり、というものではないことは知っておいてほしい。

下村被告自身も、三重県立四日市農芸高校のラグビー部監督の父親にほとんど相手にされずに自分で育った、という過去をもつそうだ。ラクビーとか野球とか、学校の本質から著しく外れているのに、勝てばすべてのネガティブな側面を無視し、褒め称える風習は止めたらどうかと思う。とくに、この夏はエネルギーを節約しなきゃいけないしさ。

育児放棄、思いやりのなさ、言葉の暴力の押収、陰湿なイジメってどれも再生産されていく。「俺がやられたから、他のヤツにも」と考えなくても、「これくらいなら許される」と考えてしまうのだと思う。

これらが止まるのは、たいへん残念なことだが、圧倒的な強制力を前にした時だ。

警察って国家による強烈な強制力である。 警察に捕まる前までは、「法律なんかかんけーねー」とか「他人にとやかく言われたかねーんだよ」とか吠えていても、身柄を拘束され、ブタ箱に押し込められると、青ざめて、おとなしくなるのが一般人。

同様のことは、いじめなどでも体が大きく空手の段をもってます、なんて子供は対象にならない。圧倒的な強制力を想像させるからだ。

こういうことを増長するもうひとつの理由は、当事者の責任負担能力のなさ。下村被告を見て思うことは、子供ふたりの育児をひとりでできるほどの能力があったのか、と思う。昔気質の人は、そこでガンバってしまうが、現代の子供は「逃げる」

先の「法律なんかかんけーねー」とか「他人にとやかく言われたかねーんだよ」ってよく考えると責任から逃げたい叫びではないだろうか。

だとすると、方法はふたつしかないように思う。
ひとつは、圧倒的な強制力で責任負担を完遂させるか、その負担を取り去るか、だ。

具体的に言えば、児童相談所に逮捕権をもたせて親としての責任を完遂させるか、ムリならさっさと保護施設に取り去るか、いずれも自助努力は期待するべきではないように思う。参照:特別司法警察職員

闇は話してわかる、っていうほど甘くはないのではないだろうか。

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