雑感(日記)

人はどこまで「自分勝手」になれるか

いやぁ、こういう親もいるだぁ。「マジコンでポケモン大会に出場できず参加賞ももらえなかった」 この話は父親まで登場し、父親の上司が常識人だったのでなんとか収まり、メデタシでおわっている。
が、今週の朝、俺がいつも乗る始発駅で始発の行列から横入りをした女がカレシと並んで座る、というプチ自分勝手も発見した時に、思ったことがある。
「自分勝手」とは自分の主観的正義が裁判で負けて、国から刑を執行されるまで、自らを省みないことだと思う。しかし、この「自分」が流動的であるところがおもしろいと思う。最初のマジコンでAの母親はAが「自分」の一部であるから、逆上する。Aの父親はAの母親とAが「自分」の一部であるから逆上する。

自分っていう定義はどうとでも変わる。喧嘩すれば、もはや自分でなくなり、敵である。そして自分勝手な奴ほど、その定義ははかない。

先の横入り女が、今はカレシを「自分」の一部だと(一方的かもしれないが)思っていたとしても、来週までそれが続いているかわからない。

自分勝手な人は多くの人に「自分」の定義が変わった時、世界は変わるということを教えてくれているのだろうか。

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