子供のころからわからないことがあります。
「どうやって人の体は治るのだろう?」
もし、「医者が治す」と考えているなら、観点が違います。
ふたつの例をあげます。
ひとつ目の話し、
私たちがなにか傷や外傷を負った時、体はその傷の止血を始め、キレた血管や皮膚を再生します。
そして「ほぼ元通り」という極めてアナログなところで再生行為は終わります。
「ほぼ」なので傷跡が残ることもあれば、年々、薄れていくこともあります。
それは医師は消毒する、動かないように固定して修復を助けるということはしてくれても細胞の修復行為そのものをやってくれているわけじゃありません。
2つ目の話し、
「人間の体の物質は絶え間なく入れ替わっているんだよー」という話しをきっとどこかで聞いたことがあるはずです。細胞には入れ替わりの期間にひらきがあり、胃の粘膜などは数日、骨などは数年、脳の神経細胞は変わらない、とされているようです。
しかし、物質が入れ替わっても癌や肝臓などはそのまま引き継がれるじゃないですか。なぜでしょうね?細胞が入れ替わっているならば、健康な細胞に変わることを期待したくなります。
これらから推察できることは、人間の体を維持しているシステムはなんらかの記憶(設計図)に基づいて人体の再生を行い続けているということではないでしょうか。
よく訳知り顔で「DNAが人体を作っている」といいますが、この議論においては雑すぎます。DNAは各組織を作る場合、その組織のためのタンパク質、結合の仕方を「部分的に転写して作る」という極めて巧妙な技を披露します。(このような振る舞いをエピゲノムというらしい)
じゃぁ、人体の仲で誰がエピゲノムを起動し、やめるのか。物質レベルではさまざまな酵素が勝つよくしていることはわかります。しかし、ここで議論していることは、傷や病気の時に酵素が出される理由です。
どう考えても私たちの意思ではありません。そんなこと考えたこともなく、自然に治ります。エピゲノムで語られる老化だって望んでなるわけではありません。
しかし、それは各自がもつ「信念」に基づいているのではないか、という仮説はあります。
例えば、多重人格者は人格が入れ替わるとアレルギー反応すら変わることが知られています。病院でも「治りたいと思ってない人は治らない」とか「病院から出たくない人は次の病気にかかる」などと言われています。
プラシーボ効果は知られていますが、反対のノシーボ効果はあまり知られていません。ノシーボとは医師に「余命あと半年」と言われたら半年で死んじゃうことです。
私は長年、これらの話しを並べて考えていました。
それで思ったのです。
病気を直接的になんとかしようという考えを持つと病気は進行し、心の安らぎを得ると病気は消えるのではないか。
なぜならば「病気と戦って亡くなった」という話しや「病気の進行を神様に祈ったけどダメだった」とかそういう失敗談はよく聞きます。
しかし「四国八十八ヶ所を回っているうちに病が消えた」とか「もう死ぬんだからと仕事をやめて、静かな場所で暮らしていたら思わず長生きした」といった話しはしばしば見聞きします。
私は近頃、あちこちに書いているのですが人間の意思とは自由ではありません。体が勝手に行動した後に理由付けをして「自分がコントロールしている」と思いこむことが「意思」の特徴だと思っています。
人はとても安易に「意志力」という言葉を使いますが、そんなものはないに等しいのです。人はほとんどすべて、暗示と環境で動かされていて、意識は後付の説明のスポークスマンです。
インターネットで「ベンジャミン・リベットの実験」で検索してみてください。
つまり、意思を動かしている思考に気づく必要があります。しばしば無意識とひとくくりにされてしまいますが、無意識の中にやはり行動を決定している機能はあるのです。
それは本人に意識しない行動を取らせますから信念に密接に関係しています。たとえば「人はひとりひとり個別であって、環境を共有しているだけだ」という信念をもつ人はエゴイスティックな行動を取りますし、「人は繋がっている」という信念をもつ人は共感的行動を取ろうとします。その行動結果を意識は適当に理屈をつけているのです。
だとすると、人体の病気も信念に基づくものかもしれません。
現実に人は感情をもつと、ニューロペプチドという神経伝達物質が作られ、全身に情報を伝えます。喜怒哀楽は全身に伝わることは、誰もが体験していることです。
では、癒やしの感情とはなんでしょうか?それは安心、安定といった感情でしょう。
病気があっても安心、安定できるかで病気への体の態度が変わるということです。
それを実践するためには、今いる環境の感情を離れて、別の場で感情をもつことになります。
それが瞑想なのだと私は思います。
上記はあくまで私の妄想です。
だって「病気は瞑想して、安心、安定を感じたら自然に体から病気の記憶が抜け、健康に戻る」なんていう結論ですから。
なお、瞑想の座り方は結跏趺坐の必要はさらさらありません。狙いは腰をたてて、丹田に気を充実させることです。私たちは普段、椅子の生活を送っていますが、椅子に座ってもこのルールを守れば瞑想は成功します。(なんで、こんな当たり前のことが有名にならず、体の硬い人がでんぐりがえっているのかわかりません。)





