まず、学校や体育会系クラブで習ったことについて疑問をもってほしいと思う。
韓国の反日教育と同じで、子供のころに学校で刷り込まれた価値観は人に大きな影響を与える。
それを払拭できるのは、その後の人生で考えることができる人だけだ。
常識を疑わないと奴隷になる
ほとんどの人は考えないで「常識」という考え方をそのまま受け入れて、半分、眠ったような人生を送る。
いくつか世の中の動きと違う「常識」をあげる。
- スポーツで培った経験は世の中を生きていくために役立つ
- 努力すれば人は望むものを得られる
- 人生は自由に幸福を追求していい
- 人は法のもとで平等だ
ひとつずつ、私が疑問だと思うところをあげる。
スポーツ
スポーツは条件を同じにするためにルールがある。そして「体育会系」で知られるように客観的なデータに基づく証拠より精神論が優先される。人は頑張った時に思わぬ力を発揮するが、そのがんばりがいつでも発現すると思い込んでいる。スポーツ漫画は出てくる人全員がインターハイ出場者やプロになる。漫画はスポーツに限らずエリート同士の戦いが多い。だからおもしろいのだが、それを「私もできる」と錯覚すると悲劇が始まる。スポーツに限らずあらゆる分野は大量の敗者がいるから成り立つのだ。
一方、社会は海外では「ゲームチェンジャー」という言葉があるとおり、ゲームのルール自体を変えてビジネスに勝つことこそ称賛される。新しい技術、新しい分野などはゲームチェンジャーの代表例だ。そして体育会系と称するおかしな慣行が日本にしか存在しないように、新人からベテランまで納得させる合理性が求められる。
スポーツ自体が悪いわけじゃない。日本型スポーツの考え方が世の中では通用しないといいたいのだ。ラクビーや野球の元監督の話なんてビジネスじゃ、なんの役にもたたない。
努力
そもそも努力できること自体が才能である。おそらくあなたの周囲には本当の努力ができる人がいないから、ちょっとの努力を「努力した」と恥ずかしげもなく言ってはばからないのだ。努力とは労働基準など無視したハードワークである。寝食を忘れるほどの努力をしている人を見たことがあるだろうか?残念だけれども、私にもそこまで努力する才能はない。
さらに橘玲氏が「言ってはいけない」という著作に書いてあるとおり、努力しても遺伝が発露した地頭のいい人間には勝てない。これは客観的データがある。ただ日本は精神論が優先しているため、世間は認めたくないのだ。努力は平等の根拠にならない。
自由がいいことか?
戦前は明治政府設立前の貴族や武家といった身分が高い人々は華族と呼ばれ、平民よりも地位が高かった。今でも旧華族は、霞会館を根城にして華族クラブという親睦団体を運営している。華族の血統でないと入れない秘密結社みたいなものである。もっとも戦前の華族はイギリスやヨーロッパの貴族と違い、ノーブレス・オブリージュを果たしていたとはとうてい言えない。兵役すら逃れており、戦死した人は少ない。平民を肉盾にしてのうのうと生きていた。
戦後、日本は全員が平等という建前にアメリカのGHQにより変わったな。アメリカでもかなりリベラルな人々が来日したためだ。
しかし、戦後、多くの人は価値観に悩んでいる。憲法には確かに「幸福追求の自由」とあるが、なにをして幸福追求すればいいのかわからない人がとても多いことは事実だ。だから変な宗教に走ったり、ポピュリズム政党やパパ活に走ったりする。きちんと自分の頭で考えるということはラクなことではない。だから「常識」に判断をぶん投げて不幸になっていく人が多いことは否定できない。
戦前までの日本社会は自由に悩む人は少なかった。農民の子は農民。職人の子は職人だった。これで全員、本当に不幸だったのだろうか?
法のもとの平等
これは単に「平等」と言っているわけじゃない。法律を使う時、身分や肩書では考えないということに過ぎない。政治家への献金がマスコミにリークされた時点で、その政治家の影響力は落ちてしまっていて法の裁きを受けるということだ。逆にいえば、影響力の大きい人物はなにをしても法で裁かれない。フジテレビの日枝久氏が40年もフジテレビに君臨し、7億円もの豪邸を建てられたことは、世の中は平等ではないことを示している。世の中の人だって「上級国民」という言葉で平等じゃないことは漠然と知っている。
今日の毎日新聞では大分県立竹田高校の剣道部で顧問に殺された生徒の話が出ている。事故が起きた時、顧問を学校、警察全員が守り、業務上過失致死にすら問われていないで野放しであった。法の裁き前に多くのフィルターがあるのが日本だ。
税金だってそうだ。我々は投票権はある。それは何百万分の一というわずかな権利だ。税金の使い道に一言も言う権利はない。しかし税金はものすごい金額でもっていかれ、今や公的保険と加算すると収入の半分に達している。それでも滞納すると罪に問われ刑務所にぶちこまれる。民主主義など北朝鮮でも唱えているが、楼閣である。集めた税金を自由に使える役人は奈良時代からの特権階級なのだ。
日本は最古の国家だとか呑気に誇っている人がいるが、それは太古から日本人はお上に逆らったことがないというに過ぎない。
にもかかわらず、変なところで平等意識を持ってしまい、社会と戦うことになると見えない階層に楯突いてしまい、人生は終了する。
悪意ある人々
このように実は世の中は平等ではない。SDGsと同じで、平等というものはいろいろ儲けるために作り出されたルールだと考えたほうがいい。
だから政治家になり金儲けしようとする人、財務省などの高級官僚になり天下って金儲けする人、会社の経営者で従業員のクビを切って費用をうかせる人、大企業で下請けいじめを趣味にしている人、などの繁栄は永遠に続いている。彼らはルールをうまく使っている側である。他人を踏み台にしても平気でいられるモラルのないサイコパスこそが資本主義では評価される。
のんきな人はこれを読んでいても、「会社の偉い人々はそんなことはしない人格者だ」と思いたいだろう。
歴史をふまえると社員を食い物にしている例は珍しくない。たとえばシャープを創業した早川徳次氏は人格者だった。しかしその後の社長達はリストラして従業員を露頭に迷わせることなんて屁でもない。口ではいろいろ言うが自分の給料だって対して減らさない。経営責任なんて倒産でもしない限り取るつもりはない。
のんきな人々は「因果応報」などというくだらない理屈を信じているが、大犯罪を犯しても報いを受けるとは限らない。「環境汚染 逃げた会社」などで検索すればたちどころにいろいろ出てくる。当時の経営陣はなにも報復など受けていない。因果応報とは弱者がつぶやく妄想に過ぎない。
権力をもった人が「みんなで決めた」というと逆らうことはできなくなり、日枝久氏のように独裁者になれる。平等を唱えながら、まったく平等ではない世界が出現する。
人生の選択
生きていく上で、カネが欲しい、いい暮らしがしたい、見栄を張りたい、そのためならなんでもすると考えることができる人は「平等の上に成り立っている代表という権力の行使」を積極的に悪用するべきだ。
しかし、他人からの評価という幻想を持たずに、自分がやりたいことで他人を喜ばせたい、家族や仲間を大事にしたい、という人は世の中は平等ではないということをわかった上で生き抜いていくことだ。
どちらの人の精神性が高いかは言うまでもない。