今日、65歳になった。
年齢だけは立派な老人になった。
体力もなくなった。
欲というものが、睡眠以外減った。
やることが多くて、老人らしい娯楽に時間を割けない。
ポチを連れて散歩して、安いバスツアーに奥さんと出かけて、こういう季節の変わり目には桜を見に出かけ、新たに俳句とか陶芸とかいうカネのかからない渋い趣味をするなんていう生活は無理なようだ。そもそもそんなものはどこでやっているのだろうか?
なぜこうなったのか、考えた。
以前書いたけれども、私がこの世に留まる日数は1万日(27.3年)は切っていると思う。体の状態からして、長生きしないと思う。
そうするとやっておきたいことをやり終えたいと強く思う。
これも「欲」なんだろう。
「自分はなにをするために、いや、なにをしたいから生きているのか?」に自分なりの答えを見つけたいと思う。
若いうちは自分が体験したことのないことを体験することに夢中になっていいと思う。
その欲により得られない苦しみを経験したり、人との軋轢が生じたり、さまざまなことが起きるように世の中はできている。
しかし、年を取ると「結果が大事」という考え方に、少なくとも私は賛同できなくなる。
儒教の元祖として有名な孔子は生涯、自分の考えで政治を行うことはできなかった。
経営の大家として有名なピーター・ドラッカーは生涯、自分で会社を経営することはなかった。
「結果がすべて」と思う人はどう思うだろうか?人類に大きな財産を残した彼らは敗残者か?
今の私は「人生は達成したいことに向かってあがくことに意味がある」と考えている。
結果に一喜一憂しないであがきつづけようと思う。
最近、知って反論できない考え方にこんなものがある。
「時間は未来から過去に向かって流れている」
この説を考察する前に前提の知識を書く。
相対性理論では時空連続体といい、時間と空間はお互いに密接不離だと考える。
つまり空間がないところに時間はなく、時間のないところに空間はない。
ところが我々は飛行機などに乗り遠い地へ移動する。移動先がないなんてことはなく、当然、そこにはそこの場所(空間)と時間が流れている。
つまり自分が東京を出発する時より未来にすでに空間がある、ということにならないだろうか?
逆に過去の空間には戻りたくても戻れない。
だから「時間は未来から過去に向かって流れている」??
詭弁かもしれない。でも今の私はこの説を否定しきれないでいる。
もうひとつ「多世界解釈」という考え方がある。これは
「確定していない未来は重ね合わされていて、観測すると定まる」
スピリチュアル系の人が大好きな「二重スリット実験」だが、物理学者の間ではコペンハーゲン解釈と多世界解釈がある。
多世界解釈のほうが水面下では優勢なようだ。
この考え方では世界をDVDのようなものだと考える。すべてのシーンは同時にDVD内に存在はする。
そのデータの一部を再生して生きているかのように見る。だから「時間はない」という表現をする人もいる。
だとすると
「観測、選択しつづける未来に時間は流れていく」
ということになる。
巷では「引き寄せの法則」という言葉が出回っているが、原始的すぎる。
物理学の考えを利用するとこうなるのではないかと思う。
ここで大事なことは観測対象は今、ないのだから物理的なものでなくてもよいということだ。
「楽しい自分」を観測し続けてもいい。
こう考えて、楽しいと思えることを体が動くかぎりやっている。
一年早くサラリーマン生活を辞めたが、サイドビジネス、ベンチャービジネスと忙しい。
年金の手続きもした(つもり)
ちなみに家内も昨年、喫茶店をオープンしたので私の家はジジイ、ババアによる起業ブームなのだ。