たまに美術館に行く。たまに数学の本を読む。
必ず思うことにしていることがある。
作者や数学の定理の発見者の一生を。
私をふくめて私達のほとんどは、ひっそりと産まれ名も知られぬままに死んでいく。
わずかな人がマスコミにより名を知られ、もっとわずかな人が歴史に名を残す。
個々人を考えたらそうだ。
でも、私達は多くの名のしれない人の恩恵を受けている。
家の中で目にするもので、誰かの意思から産まれていないものはごくわずかだろう。
人は物質の集合ではない証拠がそこにはあると思う。
芸術はそこに誰かの苦悩の証が残されている、と思う。
絵や作品を作り続け、作り続け、葛藤し、それでも売れるかどうかわからない世界に身を投じた人たちには、敬意を感じざるを得ない。
一方で「クリエイティブ」とされている映像の世界は作業が分担され、芸術ではなく工業に近い。
この分野は表彰活動が盛んだが、ひょっとして「優れた作品が表彰されている」と思っている?
料理のうまいまずいと同じで、映像作品の優劣は見る人によって違う。映画.comの批評を見ればわかる。つまり優れているかどうかより、商業ベースに乗せるために表彰活動は行われる。
誰にでもわかるようにするために、作品、俳優、監督、脚本の個人名で表彰するのだ。
露骨に商業主義が見えてしまい権威を失ったのが日本レコード大賞で、もう純文学なんて分野は存在しないのに権威あるとされている芥川賞もプロモーション活動だ。本屋大賞なんてやってるのも廃れる本屋が注目を集めるためのマーケティングに過ぎない。古臭い感じがするのはマスコミのマッチポンプだからだ。
クラシックの世界もそうだ。そこに身を投じる人は芸術でなければならないと思い込んでいるが、違う。クラシックはエンターテイメントの一部に過ぎない。だから辻井伸行氏は絶対に優勝するとわかっていた。盲目であれだけの技量をもつのだ。客を呼べないわけがない。芸術的な評価なんてゴッホ同様、できるわけがない。ショパンが自分の曲をコンクールで演奏したって落選するだろう。
商業と芸術は違う。
芸術性という観点からの作品は表彰作品ではなく、同人作品やYoutubeに埋もれているのだと思う。
芸術作品って芸術じゃ食えない好きな人が仕事から帰って作るのだ。
私の持論だがプログラムも芸術である。
絵が交通標識や駅の中のピクトグラムのように実用一点張りのものもあれば、ゴッホのように生きている間は一枚しか売れず、死後、数億円と評価されるものもある。
プログラムも同様で、企業が効率化のためにカネを出して作る実用一点張りのものもあれば、Google, Facebook, TwitterやLinuxのように、あるプログラマーが楽しそうだから作りはじめたものもある。
ソフトウェアを作るということをほとんどの人がやらない日本では理解されにくいだろうけれども、カネになるかどうかわからないまま、自分が作りたいように作るプログラムは芸術に近い。
だから個人的にバカにしてしまうのは、ハッカソンとかプログラミングコンテストだ。そこにはプログラミングの楽しさをカネと虚栄心に置き換えたすえた臭いしかしないからだ。
映画「ブルーピリオド」(原作マンガ「ブルーピリオド」)で芸大に入ろうかという少年が絵を描いて描いて描くストーリーがある。作品は残るからわかりやすいが、作品のようなプログラムを書くプログラマーも書いて書いて書きまくる。世の中に出さないだけだ。
プログラマーの端くれの私でも今までに何百というプログラムは書いた。ほとんど覚えていないから、このブログが必要なのだ。
美術館に行くと芸術家の「習作」というものによく出会う。作品を作る前に技術やモチーフの確認のために書いたものだ。プログラマーも特定の機能が目的どおり動くか確認のために習作をよく書く。
仕事のための実用一点張りのプログラムを仕事とすると、ほんとうに面白くない。もっとも、おカネを出したユーザーだって芸術性などより、きちんと動いてほしいのは当然だ。
しかし、オープンソースの大半がそうであるように、仕事から帰って自分のために書くプログラムは芸術なのだ。
だからオープンソースの作者と企業でソフトウェアを書いている人の間で認識違いが起きる。
オープンソースが公開されているのは作者の善意であり、義務を負わない。しかし世の中を動かしている重要なパッケージは数多くある。
たぶんこの文章を読む人でプログラミングをする人はごくごく少数だろう。
「自分が書いたプログラムなんて誰も評価しないし、消えるだけさ」と思うだろう。けれども、プログラマーという仕事が好きならば、芸術活動は続けてほしいと思う。