10月30日に玉置妙憂さんの講演会があり、拝聴してきました。
某証券会社のセミナールームをお借りして、とても豪華でした。
彼女は看護師であり、真言宗僧侶であり、スピリチュアルケア師です。
今回の演題は「悲しみと共に生きる」というもので、死を前にした人が中心の話だったように思います。
人は死後について、いろいろな考えをもっていますが、現代は死がタブー化しているといいます。
1976年が分岐点だったということでしたが、それ以前は在宅で亡くなる人が多かった。以降は病院で亡くなることが常識となったということです。
在宅の時は食べられなくなる、飲めなくなると素直に亡くなっていきましたが、病院では胃に穴を開けて高カロリー食を流し込む(胃瘻(いろう)という)などの延命処置ができます。
周囲の親族は「胃瘻をやらないとどうなりますか?」と聞かれると医師は「餓死しますね」という言葉を使ってしまいます。すると親族は胃瘻を頼んでしまったりしてしまいます。
今は末期癌でも苦痛にあえぐ人はいなくなりました。ペインコントロールがうまくいくようになった医学の成果です。
しかし苦痛がなくなったぶん、死について考える時間ができてしまうのです。
医学の進歩で選択の道は広がったけれども、死にどう向き合うかについて医学は教えてくれないのです。
普通に生きている我々から死は隠されています。
スーパーに行き、魚や肉が並んでいますが、屠殺している場面には遭遇しません。
書店はアンチエージング、美魔女、など、あたかも死期が遠ざかるような本にあふれています。
いざ死を前にした時、人は死についてよく知らないので迷います。
それを看護学では「スピリチュアル」といいます。
WHOの健康の定義で最初は「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病のない状態や病弱でないことではない」ということになっているのですが、そこには「身体感覚的な現象を超越して得た体験」を説明できていないということで「スピリチュアル」が考慮されています。
この「スピリチュアル」はいわゆる精神世界とは違うので日本語に翻訳が難しいのです。
死を前にすると人はこんなことを考えます。
- 私の人生はなんだったのか
- 生きている意味とは
- あとどれくらい生きていられるのでしょう
- 死にたいけどお迎えがこない
- 死んだらどうなる?
周囲の人は
- いっそ死んでくれ、と思ってしまう自分がいやだ
- もう疲れたよ
- なんとしてでも生きていて欲しい
など迷います。
もとより正解はないので、寄り添っていくことが大事だということです。
ただ言えることは、周囲の人は「自利」と「利他」を忘れるなということです。
自分が満たされていないと、他人を満たすことはできない!ということです。
ここにコップ一杯の水があり、それを飲む前に人がやってきて「水をくれ」というので差し出した。
人は水を飲むと礼も言わずに立ち去った。
この時、すでに水をあなたが飲んでいれば「しょうがないな」で済むけれども、飲んでいなかったら「貴重な水を!」と恨むでしょう。
人になにかしてあげる時に自利は大事なのです。
ということでした。
私はスピリチュアルな人間ではあるので、遠回りして上のスピリチュアルの意味は理解しました。
そして、自利と他利こそは長年のもやもやが解消しました。
よくカウンセリングやボランティアをやっている人の間で、自分を犠牲にしてでも誰かを救うということに酔っていたり、無償であるべきだ、儲けてはいけない、という人がいます。
でも、それはウソだと思っていました。人間の社会は連鎖です。ひとつの鎖が無償でやると言い出すと鎖は途切れます。
カウンセラーが無償ならば、勉強の費用は自弁しろというのでしょうか。カウンセリングの場は道端でいいのでしょうか、カウンセラーは飯を食うな、裸で生きろというのでしょうか。
人はホストクラブや風俗やエロ動画には莫大にカネを払うのに、精神的な重大な問題についてはなぜ無償であるべきだと主張するのでしょうか?
なんとなく乞食坊主だけが、精神的なものにカネは払うな、という根拠ではないでしょうか。
自利をっていない人間に他利ができるわけがないのです。
さて、個人的な考えです。
死をどう捉えるかは人それぞれです。
しかし人はひとりで生まれて、ひとりで死にます。
死を前にした時、多くの人は次のような行動に走ります。
- 精神世界に没頭する
- 死後のことをあれこれ指図し、生前どおり意思を通そうとする
- なにかを残したがる
あの世にはなにも持っていけないので、なんとか「よい置き方」をしたいのでしょうね。
あわててそんなことをするよりも、これを読んでくださっているあなたも私も時々、死を意識して悔いのない人生を歩んだほうがいいようです。
「われ、人生に悔いなし」は石原裕次郎の歌、北斗の拳のラオウ、なかにし礼などが言っていますが、そこまで断言できずとも「ああ、おもしろかった」と死にたいものだと私は思っています。