歎異抄をここで読んでみました。
仏教徒の私にとってはさっぱり心に響きませんでした。
有名な「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は高邁な思想だという噂なので私は以下のようにかってに考えていました。
”巷では善人は救われるという、しかしながら善人とは誰かの決めた倫理観を鵜呑みにした考えない人間である。自分で善悪を考える者は思慮の浅さを嘆き自分を善人とはとうてい呼べない。
一方、悪人は自分が悪いことをしたと知っているか、つまらない教えに汚染されていない無知な人間だ。
自分で考える人間、これから学ぶ人間のほうが救われる可能性は高い”
と思っていたら、阿弥陀如来がどんなに煩悩をもっている人間すら助けると誓ったからだ、という簡単なお話でした。
それじゃ阿弥陀如来はえらいね、ということになっちゃいませんか?
徹底した他力本願だから、それでいいのかな。
そもそも原始仏教では阿弥陀如来などいません。
後世に作られた仏の一人です。親鸞も気の毒なものです。
しかもその救済された先になにがあるのか?弥陀は私達をどこにい連れて行こうとしているのか?
釈尊も真言密教も今の身のまま仏になれる(悟りをひらくことができる)と言っており、天国など想定しておりません。
ただ、「偉い人に一切をおまかせします」という雑な任せ方はとても日本人的だな、とは思いました。
自分の人生は自分が運転しない限り、ロクな結果にならないと知っている私にとっては無人島に一冊だけもっていきたい本ではありませんね。
きっと私の読み方が甘いのでしょう。