という言葉は死んだ人に使うと思っているかもしれないけれど、字面をよく見てみると「仏に成る」と書いてありますわね。
仏とは死んだ人のことだけじゃなく、仏像などになっている仏様がもともとの意味でしょう。
仏教(仏の教え)は「悟る」ということを目的としているとなんとなく思っています。
仏教の開祖のお釈迦様は悟ることで輪廻転生を終え、涅槃の境地にいたるのだ、と。
涅槃の境地というものが、美人の天女が舞を舞い、おいしい食べ物を勧めてくれる、なんていう俗欲にまみれた待遇のわけがありません。
誰が言い出したのか知りませんが、品がないですね。
そもそもそんな高級クラブは3日で飽きます。天女はゴルフもうまいんですかねー。
仏教がヒンドゥー教と結びついた真言密教では宇宙の真理は大日如来に表され、私達が生身であっても大日如来の境地になれば悟れるのだ、すなわち「即身成仏」と言っています。
しかし口の悪い人々はいいます。
「そもそも開祖の空海すら悟ったかどうかわからんではないか。お釈迦様以降、悟った人はいるのかよ?」
そういう人は仮にここに「悟った人」がいるといっても、「おまえが悟ったかどうかなんて証明のしようがないだろーが」とこき下ろすに決まっています。
そうでしょうか?
お釈迦様は割合と簡単なことをおっしゃっています。ちょっと手短に学びましょう。
お釈迦様は「人生は苦だ」といいました。
四苦八苦といい、生老病死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦で合計八種類。
なんとなく漢字の字面でどういう苦しみかはわかりますよね。
で、苦から逃れるために次のステップを踏むのだ、と。
苦諦(くたい) – この世は一切が苦であると知れ。
集諦(じったい) – 苦の原因は煩悩・妄執、愛執というこだわりである。
滅諦(めったい) – 無常の世を超え、こだわりを断つことが、苦しみを滅した悟りの境地である
道諦(どうたい) – 悟りに至るためには八正道がある
要するにこだわるな、ということです。
その八正道を見てみましょう。
正見(しょうけん) 我の意識を離れ、正しく物事を見る事
正思惟(しょうしゆい) 正しく物事の道理を考える事
正語(しょうご) 真実のある正しい言葉を語る事
正業(しょうごう) 正しい行為。間違った行いをしない
正命(せいみょう) 正法に従って清浄な生活をする事
正精進(せいしょうじん) 正しく目的に向かって努力する事
正念(しょうねん) 邪念を離れて正しい道を思念する事
正定(しょうじょう) 正しく精神を集中して安定させる事
これね、今のスピリチュアルが言っていることとほとんど変わらないんです。
普通の人はなにか起きると悪い方向に考え「苦」だと思うよね。
なぜ苦と思うかというと、すでに起きたことの結果に執着し、期待どおりじゃないから。
だから結果に執着せずに、できるだけでいいから、見方を変えようが八正道ではなかろうか。
(単に見方を変えようというと、変なことを言う輩が出てくるから「正しい」をつけたのではないでしょうか?)
そしてその穏やかな方向に進むような、考え方、言葉遣い、行動をしてみたらどうだろうか。
つまり「悟る」とは、
人生に起きる物事に対応して、結果に固執するサイクルから離れること。
ひっくり返して表現すると、
なにごとにもこだわらず心穏やかによい面を見て生きていっている人
は悟った人だということではないでしょうか。
そうすると、縁起の力が働き自分を原因として望ましい結果を得ることになる。
今までは人生上に起きたこと、欲への対応で生きていた人生が逆転する。
結構、そういう人いませんか?
あくまでも私の考えなんですが、悟りってそんなに遠くにあるものじゃないような気がしています。
だから古来より悟った人はたくさんいるのではないでしょうか。
「その悟りは偽物だ。そんなに簡単なものではない」という不可知論を振りかざさなければ。