今の一部の知識人が「本にはなんでも載っている」という。
同様に後世の人はきっと、「インターネットに載っていないことはなかったこと」と言い出すだろう。
それゆえ亡き父「高尾貢」のことや、大事な恩師「大川勉先生」のことも書いておいたけれども、また書き留めておかねばならなくなった人がいる。
「三輪正喜」さん。2015年7月20日にこの世を去られた。
なぜ年配の人を「さん」づけするかというと、それが当時の日本IBMでの習慣だったから。
以下も三輪さんと呼ばせていただく。
三輪さんは、北海道大学を卒業され1971年に日本IBMに入社されたのだと記憶している。
三輪さんと私の関係はシンプルに言えば、私をプロのエンジニアにしてくれた師匠だった。
当時全盛のメインフレームのオペレーティング・システムであるMVSの専門家だった。
(今だから言うが、国産機はすべてIBMの互換機だった。オペレーティングシステムもそのまま動いた。IBM産業スパイ事件の主題だったプロセッサー3084は私が当時、現役で使っていた製品である。)
私は彼からMVSの製品としての基礎、ハードウェアの扱い方、すべてを習った。
英語も少し習った。
当時の日本IBMは都銀・信託銀行のお客さんにソフトウェアを出荷するまえに、製品を組み合わせてテストをしていた。
なぜそんなことが必要だったかというと、都銀の勘定系オンラインシステムはIBM製品群としては最大級の負荷のかかるシロモノだったからである。
最大のプロセッサーを並列して2台動かすというクラスタリングのはしりも、このあたりの要求から出てきた。(バラバラに作れない理由は「総勘定元帳」というどでかいデータベースを分割するわけにいかなかったから。今はもう知る人もわずかだろう)
その最初のテストシステムを作り、維持し、テストをする基礎を3人の偉大なエンジニアが作った。
三輪さん、大塚さん、小島さんであった。
そのシステムのハードとオペレーティングシステムを受け継いだのが私だった。
最初にお会いした時のこともよく覚えている。
大男でメガネをかけてヒゲを生やしているのでイカツイ感じで
「徹夜明けだから頭がよく動いていないけれど、仕事の説明をする。」
とおっしゃった。(人間、つまらないことはよく覚えているもんだ)
今でもどういう経緯で私がそこに配属になったのかはわからない。
幸い私が作ったテスト方法論とテストツールはいまだ現役(第三次オンラインシステムが消えるまでは現役だろう)だというから、期待には応えることができたのだと思う。
しかし、私は決して優秀な生徒ではなかった。
新入社員の初期は厨二病だったので著しく考えに偏りがあったし、頭もよくない。
仕事場所が六本木(当時、日本IBMの本社があった)なので、遊ぶ場所はいっぱい。
それでもオタク気質のある私はすっかりオペレーティングシステムワールドに染まった。
三輪さんが好んで口にして理解しやすかったことは「そもそもこれは」から始まるひとつひとつのモノ、方式の背後にある歴史だった。
その話を聞きながら、動かし(言い換えると莫大にメインフレームのCPUタイムを浪費し)、少しずつ知識を増やしていった。
当時、もっとメジャーな別組織が製品をそれぞれ担当していてフィールド(営業所)のエンジニアのサポートをしていた。
その派手さに背を向け、社内に夜中に銀行のを勘定系をシミュレーションしたシステムを組み上げ動かしていた私達はちょっとイヤな存在だったように思う。
なにをやっているかあまり説明できないし、各製品を銀行システムという観点から見るので洞察も深い。
最初のころこそ、時々、質問に出かけていたが、自分で知る方法やソフトウェアエンジニア(PS)の人々とコネクションができてからは、それもなくなった。
我ながら勝手に完結しているイヤな組織である。
そこでもめないように他部署に気を配るのも三輪さんのマネージャーとしての高いコミュニケーション能力だった。
そして、外資系のIT会社で生きていく上でもっとも重要なことを教えてくれた。
今でも覚えているがこんな言葉だった。
「オレがポケプシー(IBMのオペレーティングシステムの開発部門があった場所)に行った時、MVS(オペレーティングシステム)についてはかなり知っている多少の自信をもって行った。
でも、そんな知識はなんの役にもたたなかった。そりゃ当たり前で目の前にコードを書いた本人たちがいるんだもん。
バイ(買ってもらえる)される能力は、現場でどう使われていて、どういうよさ、問題、解決策を示せるかだよ。
それがあって知識が初めて生きる。なんとかポケプシーでも生きていくことができた」
この言葉はあれから何十年経とうが製品と開発の重要な関係を示していて、私のガイドラインになっている。
その職場で最終的に私はVM(仮想計算機)の運用、プロセッサー、ディスクシステム、テストシステム管理のほとんどを手がけた。
アメリカに行きソースコードを相当量読み、ほんのわずかの人しか知らないI/O機器とのプロトコルの解析やそれをテストするソフトウェアを作り出し、テストするまで成長した。
MVSを騙すのが仕事であった。
当時のIBMは偉大な会社で、コンピュータについてあらゆるジャンルで製品レベルでない深い知識をもった人が多くおられた。
おかげで私はコンピューターサイエンスのかなりのパートを学ぶことができた。
大学の情報学の教授くらいの知識はもてた。
それは三輪さんに正しい道をコーチングしてもらうことができたからだった。
そうそう、私は結婚することになり、社会人としてとても大事な先輩の三輪さんに仲人をお願いした。
当時の三輪さんは40歳代だったからすごく嫌がったけど。
ご家庭を大切にされている三輪さんにあやかりたかったのだ。
奥さんも元IBMのエンジニアだったそうだ。
大男の三輪さんと違い、小柄でよく笑う方だった。
そして聡明な娘さんお二人。
弦巻のご自宅にお伺いしたことがあるが、アメリカ滞在の時に購入した家具を強引に日本に持ち帰ったとのことで大きな家具があった快適なご家庭だった。
三輪さんはおそらく当時の無理がたたり、腎臓を壊して透析するようになり、一線からは下がらなくてはならなくなったからだ。
病気になってからの三輪さんとは部署も遠く離れ、話をすることもなくなった。
転職するとますます遠ざかった。
それでも、三輪さんは私の中で、とりわけプロのエンジニアとしての考え方の中に生きている。
IBMを辞めたあとも、習った方法で学習を続けオープン系だろうがワンボードだろうが扱い、プログラムを書き続け今に至る。
私が生きている限り、師匠の三輪正喜さんとの思い出を忘れないでいたい。
人の魂は肉体が滅びても死なない。人の記憶に残るかぎり存在する。
合掌