日経ビジネスオンラインで人工知能は”名人”の夢を見るか?という記事があった。
なんとも文科系な記事で内容はどうしようもないんだけれど、いくつか重要な観点があるとは感じた。
ひとつは、当然ながらコンピュータに「人工知能」と名付けてしまうどうしようもなさである。
人間の脳の動きすら、まだはっきりとはわかっていないようだ。モノごとを記憶するメカニズム、想起するメカニズムがこんな小さなパッケージでどう行われているのかは、未解明である。
ましてや、「知能」とはなにか、はとても難しい。一時は細胞ひとつがビットひとつくらいの勢いで考えられていた時代もあったが、単細胞生物も学習をすることから振り出しに戻ったようだ。
定義できていないものができた、とするのは安直だ。
もうひとつは、異質なもの同士の対決には新たなルールがいるということだ。今後、コンピュータ将棋をするのであるなばら、人間側は考える時間は無制限にすべきだと思う。ナノ秒で動くコンピューターからすれば2秒待とうが、2年待とうが同じくらい果てしない時間待っているのだから大差ない。
そして、今まで漠然と「コンピューターにやれることは単純な作業」という思い込みをわかりやすく素人に見せたことに意義があると思う。
将棋ソフトでもそうだけれど、コンピューターにニガテだった「パターン認識」のジャンルが進歩している。
海外では、スポーツニュースのレポートなどをコンピュータに書かせる試みも行われている。
日本でも記者会見の内容を適当に要約して転記したり、スポーツのように過去のデータをひっぱりだして、程度を表す定型的な言葉を並べるだけならば、コンピュータでできる時代はすぐそこだろう。
書いていてなんとなく思ったが、どれくらいのエリアの範囲で物事を関連付けて想起するという機能が「知能」なのかもしれない。意味はまったくわかっていないコンピュータ特有の悲しさはあるのだけれど。