翻訳すると「他所からもってきたものは、我が家の宝物とはなりません。」ということ。碧巌録にのっている言葉らしい。
20歳代のころから、ずーっと唱えている。
ビジネス書、自己啓発書、セミナー、なんでもいいのだけれど、著作どおりに信じるというのは、絶対に自分のものにならない。著作者にあこがれたところで、自分は違う人、著作物を読んで信じたところで、著者に責任はない。
自分なりに解釈して、使う。
これがないならば、必ず結果は得られない。鼻の穴のデカイ某女性評論家の著作を読んで、なるほどな、と思う。だからといって、書いてあるとおりにしてはならない。自分の環境を自分以外の誰が知るのか、自分の心の中を自分以外の誰が知るのか。
自転車に乗れば目的を達成できるのか?それが自分らしいのか?自分と相談しなければ、結局、やらなくなり、挫折し、前よりも悪くなる。
MBAを取るんだ、と勇んで海外に出かけてギリギリで卒業し、帰国してコンサルタントになり、心とは違う生活をすることが、自分らしいのか?自分を偽っても魂(としかいいようがない)の目指す方向に結局は戻る。
タイトルの言葉が碧巌録という、臨済宗の公安本に載っていることをよく考えてみたい。あれほどガチガチに固めた世界であっても、守破離(最初は法を守り、次に法を破り、最後は法を離れる)を求められているのである。
なんと、メモしてなかった。