戦争を経験した親をもつ我々が歴史について語ることがとても少ないように感じる。

以下、とても長い垂れ流しなので読むことはお勧めしません。

私の父は広島で被爆し、母は北九州の空襲の中を逃げ惑った。

どちらの親戚もたくさん亡くなり、親族は少ない。

母が語っていた経験だが、母の姉は挺身隊として工場勤務をしたらしい。言い換えると挺身隊とは今、誤解されているような兵隊とかかわるような仕事ではなかった。飛行機の部品作ったり、兵隊さんに「がんばって」という袋作ったり、風船爆弾の紙を貼ったりする、戦争の後方支援をするごく一般的なボランティア女性達のことだった。

これは私が小学生のころまで共通認識だったと思う。それがなぜ従軍慰安婦のような使われ方をしはじめたのか、ものすごい違和感と作為を感じる。おかしな定義で昔の資料を読んでひどい働かせ方だというならば、当時の後方支援をしていた人たちをなんと呼んでいたのだろう?

そもそも朝鮮半島は戦前は日本だった。朝鮮半島の人々は日本人として生きていた。当時の日本政府は道路を作り、病院を作り、学校を作り、ハングルを教えていた。
その前は日本が日清戦争で勝ち、下関条約(1895年)で韓国を国として認めろという条項をいれたから、韓国は国になれたのではなかったのか? ほんの130年ほど前の話なのに。
たしかに植民地のようなものだったから、一部には見下す人間もいただろう。そんな救いようのない人間はいつの時代も世界中にいる。
にもかかわらず、ありもしない独立戦争を教科書に書く国だ。
歴史の歪曲とはこういうことだ。

従軍慰安婦や建国のでっちあげは繰り返えされると仮定すると、2030年ごろになると韓国は世界中で韓国女性が無理やり海外につれていかれて、性被害にあっていると訴え始め、慰謝料よこせと言い始めるのではないだろうか。(実態は世界中で働く韓国人売春婦だが)アメリカ軍が無理やり連れていったとか、ありもしないこをと自国の教科書に書くだろう。

従軍慰安婦については朝日新聞がでっちあげ犯人であることは言うまでもないが(責任取れよ)、1990年代まで英字新聞などでは平気でSex Slaveと訳されていた。それになにも抗議をせずに放置していた日本政府もどうかと思う。世界では「沈黙は金」ならず「沈黙は認めたと同じ、負け」である。誰も指摘しない。

原爆も不思議だ。原爆資料館ならずとも、たいへんな負傷をし、放射能汚染で治らないまま死んでいった方はたくさんいる。
父は投下直後に広島に自分の故郷から米をかついで入った。わけもわからず呆然と街を歩き、あとで大量に髪が抜けたという。
そして妊娠していた人の子供、その後に産んだ子供については奇形が多かったことは本や新聞で声高に語られていた。
戦争を二度とするべきでない、とみんな思ったものだ。
後に広島も長崎も復興している程度の放射能汚染だったのに、かようにかなりの人的被害が出たと記憶している。

ところが福島では、より大量の放射能が放出され続けているのに、人的な被害については口をつぐむばかりで、まるでないかのようだ。
友人が福島周辺の放射能についてブログに書いていたら、公安から指導が入ってやめた。ということは国が管理したいなにかがあるのだろう。
たしかに国土の一部が国が関与している原発技術者の慢心により空白になったのだ。「もんじゅ」にかけた2兆円はどっかの誰かが大儲けしただけに終わった。
いろいろなかったことにしたいのだろうが、数十年後の歴史はどう判断するだろうか。

さて、憲法の改憲論議がもちあがっているが、ここでも親から聞いたことを記しておきたい。
結局、赤紙一枚で問答無用で徴収され、戦地にやられたのは普通の人である。政府役人、地方自治体役員などの師弟は赤紙が来ず、戦争で死んでないということだ。これは政治家の家族からも聞いた。

戦争とはマスコミを使って国民を煽り、「自分の命を国体に捧げる」という抽象的概念で洗脳して死地に赴かせることだ。その「国体」とやらの定義はころころ変わる。

やろうと言い出した政府や軍の中枢の人間には生命の危機はなく、参謀という頭でっかちな連中は補給線など気にせず(アカの他人を行かせるのだから気にしないで当たり前)戦地に追いやった。あの戦争では戦闘で死んだ人間より餓死した人間のほうが多いという体たらくだった。餓死することが国体を護ることだったらしい。

「本土決戦」などという愚かな言葉を口走り、「国体」という抽象概念に燃え上がって軍隊は戦争をやめられなかった。
言い換えると、そんな人間が大量に生み出されるほど、マスコミの洗脳はうまくいった、ということだ。

昭和天皇が玉音放送をしなければ自ら止めて国民の犠牲をとどめるということできなかったどころか、その玉音放送をやめさせるために皇居を襲ったのだ。
政治家がなにを言おうが、戦争する時の敵は遠くにはいない。企画する奴だ。

役人であった東条英機以下が愚かであったのだが、日本人はもともと戦争に向かない。
精神構造が戦争に向いていないのだ。
今でもスポーツの分野では思わぬ力を出すことがある精神論がもてはやされている。
スポーツはルールの上で決められたことをする。世の中はもっと複雑でルール自体を変えることがある。
スポーツで学んだ精神論を世の中のビジネスに適用すると必ず負ける。

戦争とはお互いの国の工業力の勝負だ。戦ってどんどん壊す。それ以上に兵器を作れた国が勝ち。
だから孫氏は「己を知り敵を知れば百戦危うからず」と書き残したのだ。
にもかかわらず、冷徹に数量の計算をせずに精神論でなんとかなる。戦闘に行けば24時間365日任務遂行すればなんとかなるとラクな考えに逃げる。
しかも特攻兵器などという思考停止の産物を誰も止めずにやってしまう。

どうやって勝とうかと必死に考えないならば、絶対に勝てない。
論理的に考え抜くということが日本人でできる人は少ない。
そして日本人は計画を止めるということができない。
精神論とは万能の解決策であり、思考停止する甘い考え方なのだ。

当時の軍人たちはむつかしそうな顔をしていても、考えていることはアメリカの将兵より明らかに劣っていた。

その証拠のひとつが、今も硫黄島やガタルカナル島に日本兵の遺体放置だ。政府も放置している。
アメリカはすべてのご遺体を家族に返す。遺体を取り戻すための戦闘も辞さない国だ。これだけで当時の日本軍のだらしなさがわかろうというものだ。

ここ数年の出来事といえば、森友、課計と自衛隊の日記問題だろう。

これらはどれも同じ原因で、行政の長である首相官邸が総理大臣とその家族の意向を法的処理を曲げてとおしたということだ。
しかも、国会で官僚のメモよりも証言者の記憶が正しいという暴論がまかりとおっている。

佐川前国税庁長官は、嘘の証言のご褒美で国税庁長官になった。もうメチャクチャである。
その佐川氏は大阪地検特捜部の捜査を受けたが不起訴である。
特捜部とは田中角栄の金権問題を追求し、政府の悪すら正していたが、そんな仕事はもうやらないのだろう。
村井審議官の汚職を大坪って奴がでっちあげ、フロッピー証拠改ざんを検察官がやるまでになってから、なにもしないのが特捜部になったようだ。

その騒ぎの真っ只中に、財務省のヘッドの福田次官がセクハラで退任した。
しかし、彼は「そんなことはない」と言い張る。つまり「俺がないと言えばないのだ」である。
「俺がないといえばない」が今の政府だ。

証拠があっても、それを否定してしまうのであれば法治国家でもなんでもない。

そういえば日本は本当に民主主義なんだろうか?
大和武尊以降、革命がなくずっと続いているということは、延々と官僚支配の国であり、戦後から民主主義であるふりをしているに過ぎないことは忘れてはならないと思う。
だから福田氏は「俺がないといえばない」と言ったのではないか。

おそろしいことだ。

太平洋戦争前夜には軍部、とくに中国にいた関東軍の暴走が目に余った。

戦後、70年ほど経って、ふたたび役人は自分たちの好き放題を始めたのではなかろうか。
民主主義など、日本では建前であって本音じゃない。

今後、法律の執行者であるはずの役所が法を無視して好き放題やっていることはなにかを引き起こすのだろう。
それがなんなのか。

一方で、日本は少子化である。
為政者がいくら権力を振り回しても、対象がどんどん減っている。
これがなにを引き起こすのか。

その少子化の只中の人々は知性を軽んじる。
大学で文化系が崩壊していることが、上に書いたモラルのなさにつながっているのではないだろうか。

「倫理」なんて言葉をついぞ日本では聞かない。
我々の父親の世代は知性を求めた。私の父は染料の研究をしていたから、ウチにあったたくさんの岩波文庫が真っ赤だったことを覚えている。
団塊の世代も間違っていたとはいえ、学生運動のさなかにたくさんの本を読んでいた。

学生運動にこりた政府が入試と偏差値という概念を打ち出した。大前研一の言うところでは意図的にやられた愚民化政策なのだそうだ。

効果はてきめんで入試に関係ないものをみな無視するようになった。あまりにもなにもないから「君はどう生きるか」なんて本が漫画として人気になったりする。

私は若いころは本をたくさん読んだが、すでに変わり者であった。

20年くらい前から本屋では「一週間でわかる」とか「一ヶ月でわかる」などという入門レベルのハウツー本が出回るようになった。
結果、勉強しない連中は専門家になる苦労も理解しないし、意見も無視するようになった。やらないのにすぐできると思ってしまうのだ。

10年くらい前からインターネットが出回ると、なんでもネットに載っていると誤解するようになった。トリビアばかりで、丹念に大きな構造を調べるということができなくなっていった。

難しい議論(例:原発)でも「素人にわかるように説明しろ」「素人にわかるように説明できない奴は本人がわかっていない」という安易な意見が世の中でほぼ普通となった。
地道に算数、数学、高等数学と積み重ねていって学ぶということをほとんどの人が顧みない。

だから大学の研究にお金を出さなくなった。出す時は研究というより開発費だ。今後、日本からはノーベル賞受賞者は出ないだろう。ノーベル賞は自然現象の元を発見した人類の進歩に対して与えられるからだ。

今、2018年ごろは日本の人々はなにも知らない無知なままで、感じたままをSNSで垂れ流す。
それはおかしいと、さとされると「上から目線」という便利な言葉で排除し、知らないままでいいとする。
知っている人間が教えさとせばすべて「上から目線」にならざるをえない。詭弁である。

「上から目線」という言葉は知性の否定だと思う。

浅い見解しかもてず、感情のままに動く人々は忍耐を知らない。それじゃ、たいしたことはできないと自分のどこかでわかっているから、なにもしようとしない。目先の自分のことしか考えない。

前に進む勇者が失敗すれば叩き再起不能にし、成功すればアラ探しをし、「立派な人間じゃないからダメだ」と全否定する。

そうやって日本は有能な政治家を何人もダメにした。
安倍晋三のような小物政治家しか残っていないのだ。
小物政治家夫婦は小物らしく、森友や加計でせこい疑獄を起こす。

これで新しいことなど起きるわけがない。

いまだに「中国人」というだけでバカにする人が多い。いったいどこでその差別を学んだのか?マスコミだろうか。
日本の10倍の人口がいて、野球場のようなところで試験をして勝ち上がってきた、とても能力の高い人間がエリートビジネスマンとして数多くいるのに、たいした仕事も年収もない人間がなぜバカにできるのか?(もちろん、日本の10倍、ダメな人もいる)
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」だが、知らないんじゃ話にならない。

国同士の産業の競争の結果が貿易であるならば、この学ぼうとしない、プライドだけは一人前の国民ばかりになった国は段々と先進国から階段を降りていくしかないではないか。

多くの人が司馬遼太郎の小説で、歴史を振り返ることは役にたつと思っている。
しかし、過去に似たようなことが起きたとしても発生条件により結果は違う。
今、我々が観ている現実を過去の歴史になぞらえたところでなにを引き起こすのかは予期できない。

今、我々の目の前で起きていることから未来がわからない理由は、さまざまな雑然とした事実の積み重ねが、ある時臨界点を超え、突然、ガラッと崩れていくという感じで時代は変化するからではないだろうか?

最後に司馬遼太郎について書いておきたい。
彼の歴史小説はもちろんおもしろい。そのおもしろさのひとつは主人公がいることだ。
小説はストーリーがあり、そのストーリーを演じる登場人物が出て来る。

しかし、数十年間、私がこの世を生きた期間を歴史として見た時、誰が主人公で登場人物なのか?
誰かの理念どおりに世の中は動いただろうか?そんな時代をひっぱるスーパーマンがいたろうか?

こう考えると歴史を登場人物と共に、紀伝体(司馬遷が史記で編み出した方法だが)で捉えることは時の流れを正しく語っているとは、とうてい思えないのだ。
司馬遼太郎の本は背後の思想が、罪作りだと思う。

歴史とは、いろんなところで次々に発生した出来事を記録するだけが本来は正しく、そこにひとつのストーリーを見出したとしても、それが正しいわけじゃない。いくつでも別のストーリーは描けるのだと思う。