目に見えるもの、目に見えないもの

(以下は、Kさんのために書きました)

あるいは物質主義と観念主義といっていいかもしれない。

まったく教育を受けていないと、この世は物質のみでできており人の思考など関係ないと思うようだ。確かに暴力団やチンピラ連合に限って、「世の中カネや」と信じてる。

しかし、周りを見回せばわかるけれども、人の思考なしで存在している物質などない。
すべては誰かの意思が反映された物質である。

自分がものを創りだすことなく、言われるがまま変形するだけだと世界は物質主義に見える。

「お金で解決できない問題はない」などと言っている人はおそらく、ものを創りだしたことなく、大病もしたことのない人だと思う。ついでにいえば、本当に人を愛するといったプライスレスな体験が乏しいのだろう。

資格とか肩書きとかも誰かが作り出し、誰かがそれに価値を与えているというところまで考えると、最初に存在したものが意思であることがわかる。

今まで世の中にないものを創りだす時、最初にあるものはやはり意思だ。

実は私のもうひとつ専門分野の代替医療でも同じことがある。

多くの人はなにも考えずに、鍼灸やマッサージを受ける。それで効果を感じるだろう。感じられないなら施術者の腕が悪いだけで、その方法自体に疑問を持つことはあまりないと思う。

しかし、施術者側の事情はまったく違う。
鍼灸は経絡理論を知らないと話にならない。その理論で患者の治療を決める。
マッサージがアユールベーダに準拠しているのであれば、トリ・ドーシャ理論を知らないと話にならない。その理論で汚れが溜まっているところを決める。

経絡もトリ・ドーシャも医学という観点からは、まったく説明がつかない。
だから、意味がない、すべてはプラシーボ(思い込みだ)と何も調べずにいう人がいる。
中華人民共和国もインド政府も各々の治療理論の国立の研究所をもっている。なぜならば、副作用が少なく、安い費用で、効果が長く続く。お金がない多くの人々を治療できるからなのだ。科学的じゃないからやらない、なんていう本末転倒なことはいわないのである。
事情はアメリカも同じだ。医療保険制度が崩壊しているアメリカでは安価な治療は国としてサポートせざるを得ない。そこにはなにかがある。

そして物質ではない。
今の物証主義の科学に限界があることを多くの賢者は知っている。

科学でこんなことすらわからない例をあげる。
「赤いリンゴが落ちる」という場合、「赤い」「リンゴ」「落ちる」という3つの情報を前々別々のところで処理している。それをどうやってあわせているのか、「結合問題」といわれるんですが、さっぱりわからない。

こんなことがわからないのだ。「心は脳のどこに宿っているの?」「意識・魂は脳のどこに宿っているの?」「いったい脳のどこで,人間は思考しているの?」

シャーマンは、意識は脳にはない、といっているし、腕も足も考える、といっている。

 

ひるがえって、自分の生活を見てみよう。
多くの人が厳密に考えたこともないにもかかわらず、人生は自分でコントロールできると思っている。

もしコントロールできるなら、まず、未来は多かれ少なかれ予想可能でなければならない。大げさなというだろうが、以下のように考えてみよう。

今まで必ずベストの人脈を選び、積み上げたキャリアパスが必ず花開くのなら、民主党政権も経済情勢も織り込んでいるはずである。
就職する人々は、長い間務める前提であるから、今、花形の企業ではなく20年後に花形の企業をしっかり見極め、就職するはずである。
結婚も恋愛と生活を伴う結婚は違うから、ベストな人生のパートナーを選んだはずである。相手に苦労する、経済的な苦労なんてありえないはずだ。

そんなことができている人がいるのか? たった一人でも。

コンサルティング会社や人材コンサルタントは、あたかもきっちりとした「出世の道」があるようなことをいう。が、コンサルティング会社は自社でビジネスをもたず、ペーパーワークしかしない評論家。人材コンサルにいたっては、サラリーマンという従業員の人事制度に詳しいだけで、ビジネスについては何も知らない。自信ありげに見えているだけで、内情はからっぽ。
パスなんてものがない変動が激しい世の中で大事なことはキャリアパスより生き方だと思う。
あなたや私より確実に賢いはずの人の行動を見てみよう。

今時、企業で3年以上の経営計画立てているとしたら、少々の世の中の変動ではたじろかないストックをもつ大企業だけだろう。
もし賢く考え、行動に移せるのであるのならば、数年前からドルの信頼性が議論された瞬間に、円高の予想をたて対応は当然しているはずである。そんな会社があっただろうか?日本の模範とされているトヨタ自動車も苦しんでいる。
JALだって倒産企業となり、従業員はクレジット・カードすら作れないなんて時代になるはずがなかったのだ。

それなりに叡智を集めて行なっているビジネスがそうであるのに、なぜ個々人が人生をコントロールできると思っているのか不思議でならない。マジでわからない。

我々にできることは、せいぜい環境の理不尽さに気づき、それが崩壊した時の備えをすることと、せめてどうせ生きるなら、自分が目指したい方向をもつことだけではないのだろうか。

すくなくとも、自分の考えの及ぶ範囲は顕在意識の中だけと知るべきだろう。顕在意識は潜在意識の肩にのっかった子供のようなものだ。なんでも自分がやっているつもりになっているが、過去のデータと考えられる限りの危険について自分を脅すのが仕事だ。そこに未来は織り込まれていない。

そして、あなたも私も思考ではなく、意思により運ばれていくのだ。
「せめて自分が目指したい方向」を意思というのなら、その人の意思がその人を運んでいく。

それは別に交差点のようにはっきりした別れ道じゃない。

ちょっとした仕事のグループ分け、

ちょっとした仕事のアサインのされ方、

ちょっとした取引先の違い、

ちょっとした2ランク上の上司との会話、

ちょっとした学生時代の友達との会話、

ちょっとした趣味友、

ちょっとした職場での怒り、

それらの分かれ道が我々を運んでいく。

突然、大きな問題(本当はその向こうには成長のネタが必ず隠れているのだが)に直面すると、人はいきなり不幸であるというレッテルを貼付け、次にそうなった不幸を嘆き、神仏にすがってみたり他人に相談してみたり、今となっては意味のない原因追求に走り、現実逃避する。

問題を「不幸」と断定したところから、不幸が始まっているに過ぎない。事件には幸運も不幸もレッテルは貼られていない。

本当はその問題は自分の意思の積み重ねの現れであって、自分の知らない部分が運んできたのだ。なぜならば、それより前のちょっとしたことの積み重ねが臨界に来たに過ぎないのだから。

だから、大きな問題は、普段から意思をもった人にとっては必ず、間違いなくチャンスなのだ。意思をもっていない人は、相ふさわしい混沌が来るだけ。

ただ多くの人は自分が進みたい方向は決まっているのに、人生をコントロールできると顕在意識が思い込んでいるから認めない。
顕在意識はうぬぼれ屋で、過去の経験だけで未来を判断できると自信満々である。
我々はその自信にだまされる。
一週間前と今日の悩みは変化している。もう忘れてるだろうけど。
理由は一日前に、偶然起きたこと、あった人について、まだわからないのに、経験として当然のように織り込んであれこれ顕在意識は考える。

でもね、一週間前にその顕在意識はなんといっていたのか思い出してほしい。理性的に考えているつもりで、かように脆弱な浮ついた考えなのだ。

顕在意識の意見に騙されてはいけない。最初の「不幸」レッテルを剥がし、じっとこれから来る現実を見て、自分の行きたい方向を目指すことだけが正しい道を導き出せる。

なぜならば、ちょっとした判断を積み重ねた意思が、最後には勝つからである。

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