私について

このページを見ていただいて、恐縮です。

高尾 司といいます。千葉県船橋市に住んでいます。(秋葉原まで電車で30分)

得意なこと

  • 人がやらないスモールビジネスの立ち上げ方
  • 表芸(リーマン)と裏芸(経営者)のバランスを取ること
  • 大企業との営業的おつきあい
  • ITサービス事業と通信事業
  • 英語でビジネスすること

表芸の職務経歴

2008年9月- 現在 SAP Global グローバルサポート部門(日本ではありません)において、パートナーのサポート方針を決めたり、日本の大手パートナーの保守サービスのカウンターパートをやっています。
上司はイギリス人でロンドンに在住。同僚はカナダ、アメリカ、ブラジル、ドイツ、中国、シンガポール、フィリピン。ゆえに英語は毎日仕事の道具です。決してうまくありません。
2007/5-2008/9 株式会社ラック オーナーがお亡くなりになって尖った色があせた感じがしています。
2000/11-2007/4 NTTコミュニケーションズ株式会社 回線部門には尊敬できるタレントぞろいでした。
他の部門の大半が3年ローテーションのため、真面目に仕事を覚えようとしない。浮ついているか、変なプライドをもっている。回線以外はすべて買ってきたもので商売しようとしているところがダメだと思います。
1999/4-2000/10 いまだに細々続いているプライベートカンパニー IT技術やトレンドを軽視して儲からない商売を続けているので大変だと思います。
1997/9-1999/3 ピープルソフトジャパン株式会社 楽しい会社でしたが、残党が「外資系ゴロ」に成り下がっていて悲しい限り
1983/4-1997/8 日本IBM株式会社 銀行の勘定系のテストで大量にプログラムを書いた珍しいSE、ソフトウェア製品の展開などやっていました。
もう、昔のIBMと今のIBMはまったく違います。

裏芸の職務経歴

  • 本を書く
  • 電子機器の企画、制作、商品化
  • (非合理的な)代替医療関係の先生たちからの(合理的な)電子機器制作の請け負い
  • 電子機器を動かすハードを設計し、プログラムを設計して開発する
  • いろんなものの輸入

半生記

なんでこんなスキルが身についたか、半生を反省してみたいと思います。

中学校以前

小さいころから機械ものは大好きでした。分解して壊したものは数知れず。
AC100Vコンセントでしびれたことは何度もありました。

1970年代に夢中になったものは、「子供の科学」とラジオ。
学研の電子ボードを金持ちのお医者さんの息子が買ってもらったのがどうしても欲しくて親に無理言って買ってもらったなぁ。

当時は当然、アナログ回路全盛でした。発振回路や増幅回路についてあれこれ説明が載っているのですが、さっぱり理解できない。
理解できないで当たり前だと気づいたのは社会人になってからです。理由はアナログ回路って相互作用が複雑すぎて、経験から成功したものが回路として使われているのです。
だから、理屈はほとんど後付けに近いです。

中学校になった時は本ばかり読んでいて、はんだ付けはお休みでした。

高校生時代

多感な高校生時代は2年生から友人に誘われ科学部物理班に入りました。
そこでいくつかの電子回路を作っていました。
隣の部屋が無線部で一緒によく遊んだな。彼らの中にはテレビから高圧回路を取り出して、イオンクラフトを作る猛者もいました。
私はもっぱら弱電ばかり。

高校三年で勉強しなきゃいけないのに、ロータリースイッチで作る3目並べの回路にすっかり夢中になっておりましたっけ。
しかし、これが最初のデジタル回路との出会いでした。

大学時代

大学2年の時にPC-8801を買いました。

しかしこのころは素人のマニアとしてで、BASICで多少プログラムは書いてみてもゲーム作ったり(アセンブラー)はとうてい無理でした。

雑誌の月刊アスキーが全盛の時代でした。

大学では計量経済学を学んでいましたから、メインフレームでFORTRANを動かしていました。

パンチカードにプログラムをいれ、意味もわからずにJCLカードをカードデッキに加えてカードリーダーに流して結果が出るのを待つ、という感じです。
今、思い起こすと富士通製でたしか大阪大学からのお古だったように思います。

当時は大阪市立大学にいましたから、アルバイトも大阪市内でした。
同じ時期に東京ではアスキーにマイクロソフトにいろいろ勃興していたようで、残念です。

日本IBM時代

ここでコンピュータについてのプロとしての技術のすべてを学んだといっても過言ではありません。

どういうわけなのかわからないのですが、大阪から東京本社のSE技術に配属になりました。
しかも製品サポートではなく、銀行システムのテストです。

六本木にあった本社で入社初年のクリスマスですら徹夜でテスト。

先輩が「ピザくらい食べようか」とピザを買い出しに行き冷めないようにプロセッサーの上に乗せておいたものでした。20歳代のバブルが盛んなころ、私はほとんど昼夜逆転の生活をしていました。
ディスコなんて社会人になって一回くらいしか行ってません。
そんな自分がよもや将来、銀座を飲み歩くことになるなんて考えてもいませんでした。いや、絶対に自分の人生にはないと思っていました。

当時使っていたプロセッサーは3081, 3084、ディスクは3330,3380などでした。
ディスクには縁があり、新入社員時に日本IBMで最初で最後の野洲工場実習があり、3380を作り、検査工程までやりました。(やらせてもらえた、といったほうが正確だな)
これが後々、システムテストに役立つことになるとは思ってもみませんでした。

テスト対象のソフトウェアはMVS/XA, MVS/ESAまででした。乗っけるソフトはIMS。
端末数千台のシミュレーターを動かして負荷かけたり、エラーを起こすと予定どおり動くかテストするんです。
私がやっていたことは、

  1. テストシステムのツール作成、メンテナンス
  2. VM作ってテストシステムのリソース配分
  3. MVSのAPAR(バグレポート)を全部読んでやばいものを見つける
  4. 人に言えないデバイスのトラブルのテスト

2以外はエラーの再現環境を作り出すプログラムが必要です。
タイミングで起きるというと、タイミングを作る。
そして、パフォーマンステストをするならばパフォーマンスを測るツールを作る。

教えは職人気質のエンジニアの人からか、海外のエンジニアが書いたソースコードでした。
今でも覚えていますが、アメリカのIBMがサービスしていたINNというメインフレームのリソースを貸すシステムのプログラムを日本でも動かすというプロジェクトがありました。
日本側担当の安田っていうヤツにはめちゃくちゃモラハラされましたね。あいつの被害のおかげでスキルトランスファーにはものすごく積極的な人間になりました。
それはさておきINNのシステムを書いたボドーっていう人のMVSの機能変更をするコードではものすごく勉強させてもらいました。

昔はのんきな時代で、MVSのソースコードが社内ではマイクロフィッシュ(スマホほどの大きさのネガにびっしりプログラムの写真が取られているのを拡大ビューワーで見る)で読むことができたのです。

ブートシーケンス、ディスパッチャ、DADSM、デバイスクラスなど暇さえあれば読んでました。

5は興味深い分野です。
最初はファイバーチャネルでした。ケーブルがぶっとい銅線から上品な光ファイバーに変わるわけで都銀相手の部門としては慎重でした。お陰様で3ヶ月ほどアメリカのシリコンバレー近くのサンタ・テレサ研究所にソースコードのスタディに行かせてもらいました。朝から夕方までコードを読むので後は疲れて、同時期に出張していた日本人社員や他国の社員と遊んでいました。
このころの英語はかなりひどいレベルでしたけど、一応、暮らせました。

次にディスクについてトラブルのテストをやりました。それでメインフレームのIOを本格的に学ぶことになります。
社内のディスクの専門家の皆さんは若者には優しい人ばかりで、CCWトレースからディスクの命令の出し方とレスポンスのCSWの読み方を習い、別のエンジニアの方からCCWの作り方を習っていました。武藤さんありがとうございました。

ここまで行くとMVSについてはプログラムレベルで、ほぼわかるようになっていました。

そのぶん、同じ部門でも仕事を趣味としていない人とは折り合いが悪かったです。
キツイことを言うので後輩にも嫌われていました。
因果なもので私を嫌いな後輩達は、私が作ったテストシステム環境やツールをそれから20年も使い続けたのです。

昔の日本IBMはお金があり、余裕がありました。「SE研究所」などというエンジニアリング技術だけを研究する部門すらありました。(当時は、日本の情報処理学会も賑やかでしたよ)
ここの退職者の多くの人が後に大学教授になっています。

その部門が「コンピューター・アーキテクチャ」というコースを設置しており、ここでコンピューターサイエンスの基礎を学ぶことができました。
東大などでもやっているようですが、机上ながら半導体製造からコンピュータを作るまでを学ぶわけです。
相当にハードでしたが、そういうことを知っていると同じ技術で作られたものには追従できます。
当時、最新のインテルCPUがPentiumでした。(その後はロクに勉強してない)

トランジスタのスイッチング作用や74xxシリーズを理解したのは、このころの勉強の一環でした。

原理がわかってくると、なにか作りたくなります。

IBM入社以来、ほとんどいじっていなかったマイコン、電子機器への興味が復活してきました。
時代は16ビットCPUから32ビットCPUに移る頃でした。

そして自分がいたIBMがDOS/Vを発表します。
日本IBMは日本のIT業界にとても大きい足跡を残していますが、ひとつがDOS/Vです。
DOS/V以前のMS-DOSはNECさんや富士通さん専用に作られていました。なぜならば当時のパソコンは漢字ROMというものを搭載していて、そこから漢字のイメージを取り出していたのです。CPUが非力だったから仕方ありません。富士通さん用のMS-DOSはPC-98上では動作しません。

しかし、DOS/Vは英語版のMS-DOSにメモリー上に展開した漢字イメージを表示するエクステンダーを付加したものでした。漢字の表示がハードからソフトに変わったのです。

このため海外のPCでもDOS/Vを動かせば日本語表示ができるようになったのです。
今は当たり前にLenovoやDELLのPCをみんなが使っていますが、DOS/Vがなかったらこんなにうまく安価に日本でWindows PCが普及したかどうか、はなはだ疑問です。

DOS/Vの攻勢で過去の成功が忘れられないNECのPCが没落していったのは興味深いことでした。
マイクロソフトのWindows日本語パッケージにはかなりの期間DOS/V用とNEC PC98用のメディアが同梱されていました。

もちろん私は台湾製のPCにDOS/Vを入れて、家内に怒られるほど夢中で遊んでいました。
しかし、この遊びは私のプロのエンジニアの人生に重要な意味を持ち始めます。
会社の研修で習うのではなく、自分でどんどん勉強して知識を身につけていくというサイクルの始まりでした。

言い換えるとIBMで習うことが業界のすべてではなくなりはじめていたのです。
いまだに家内は理解していないでしょうが、後の転職のための技術スキル取得はあのPCから始まりました。

そして当時のPCはカードスロットがありサードパーティ、自作のボードをさして使うことができました。
今のグラフィックボードのもっと汎用的なものです。代表的なものは大容量ディスクやMOを使うためのSCSIカードでした。ADAPTECのカードなどを買っていました。
一方で電話線をつなぐカードなどを専門誌を参考にして作ったりしていました。電話はアナログ回路ですから、意味は半分くらいしかわからなかったのですが。

仕事も変わりました。

テスト屋さんから旧富士銀行担当の営業所のエンジニアに変わりました。

お客さんにどうアプローチしていいかわからないのと、当時のSE部長だったK氏のパワハラでかなり悩みました。
しかし営業部長のK氏は鬼で有名でしたが、なぜか私にはあまり辛くあたることなく助かりました。ひとつ先輩の営業リーダーにもずいぶんと助けられました。久田さん、私の抜け目のない営業スキルはあなたの教えから始まっています。感謝しています。

もちろん銀行のシステムはMVSで動いているし、テスト環境は銀行を模したものでしたから勘定系について後輩やベンダーからの問い合わせに答えることは簡単でした。

サードパーティソフトのプリセールスの人たちと個人的な飲み会をしていたことはよい思い出です。

よく覚えているのは、1992年に勘定系オンラインがダウンしました。
こういう時は関係者全員がコントロールセンターに集まります。理由はなんらかの疑問に即答するためです。
先輩のIMSをよく知っている人が次になにをするか決めて、手順を踏んでいきます。
しかし新聞沙汰になることは確定ですから、マイクを握っていても声が上ずっています。
ダウンの原因であるリカバリーデータセットの不整合を手作業で直そうとおっしゃった時に、私は「とにかく一度、エマージェンシーリスタートしてくれ。そうでないと不整合がどこまで広がるかわからない」と意見し、エマージェンシーリスタートさせました。正規の手順ですしね。
その予想はあたり、見事にIMSは再起動しました。オンラインダウンはオンラインダウンですが、立ち上がらない闇に入り込まずに本当によかったと思いました。

銀行のお客さんは冷たいようで、ホットなところがありました。
システムインテグレーションのPMを始めた時、稟議をとおしてくれたり(賛成度合いはハンコの角度でわかる)、トラブル時に事実を言うから好かれたり、事実を言うから嫌われたり、いろいろ思い出はあります。

その後、私はグローバル部門に移ります。

そこではプロダクトのオーナーをやりました。やったプロダクトはヘルプデスクシステムでした。
良くも悪くもIBM製で出てきた時期は遅く、世の中にはバンティブ(後にPeopleSoftに買収される)、マカフィー(今はセキュリティの会社となる)などがすでにあり、機能もどう見ても見劣りするわけです。
CTIができたのですが、開発はとても難しかったです。CTIの件でハンブルグ出張は楽しかったな。

初めてグローバルチームというものに触れ、リーダーは韓国の人(後のIBM韓国の社長)でしたがいろいろ教えられました。

もっとも大事なことは DO NOT HESITATE !

しかしながらIBM製ヘルプデスクを日本で売ることに反対したこと、10年上の人たちがやっている仕事をみて将来が見えなくなりIBMを辞めることにしました。

転職には遅い37歳でしたが、この転職は大正解だったのです。

転職

最初の転職先は今はOracleに買収されたPeople Softでした。
この記事では技術面を主に書くことにしていますが、初めての他社でかなりの変化です。

IBMにいるとなんでもあります。誰かいます。自分の仕事の範囲は比較的狭いのです。

しかし小さい外資系企業ではとくに、リソースはあっても自分でやらねば始まりません。
私にないスキルで困ったのがUNIXでした。PeopleSoft社内の知っている人はあまり教えてくれません。まだ、Linuxがない時代でしたから、触れる環境も限られていました。
Linuxが出現し、手元でいじれるまでUNIXは苦手でした。

で、社内の政変があり、プライベートな開発会社を有志で作ることになりました。

ここではDelphiでの開発をすることになりました。DelphiはVisual Studioより見通しのいい開発環境です。優秀な独立系コンサルタントに教えられながらプロジェクトのソフトを書きました。
残念ですがDelphiはもはやメジャーともいえないので、あれから使っていません。

自分も参加した会社ですが、経営方針というかビジネスへの考え方の違いで去ることにしました。
とはいえ、後年、起業する時にこの時の失敗からまったく反対の方針の会社を作りました。

次に移った会社がNTTコミュニケーションズです。
NTTは働くといっても、労働組合が強いですからめちゃくちゃな働き方はしません。

余暇で十分、いろいろな研究ができました。

MicroChip Technologyを知ったのはNTT在職中じゃないかな。

マイクロプロセッサーですが、アセンブラー主体で開発するという当時の環境にひかれました。

アセンブラーはメインフレームをいじっていたころに書いていましたから。

 

 

 

続く。。。