SNSが発達した今、とても奇妙なことに気づいた。
「持たざるものほど意見する」
ことだ。
SNSで幅を利かせる意見はいつも常識どおり、保守的だ。
だいたい読まなくてもわかる。
そもそもロクに事情もわからない他人事について、誰がどれだけ取材してデータ集めたかまったく不明なのに、報道やSNSで書かれていることだけが事象の全体像だと信じ込むこと自体、思慮の浅さを示している。
たとえばセックスレスで悩んでいる夫が妻に手紙を書いた。
するとSNSでは一斉に男性である夫をたたき「気持ち悪い」と書く。
それは女性側から見たら、常識であり正論に見えるかもしれない。
結婚当時は合意していた妻がなにを考えてセックスを拒否するようになったのか事情はいっさいわからない。にもかかわらず夫を非難する。
人は動物だ。セックスしなければ子供は生まれない。
性欲が気持ち悪いと非難するならば、社会的価値は別として、もう生物としての役割を果たせない存在だ。
なぜ、このような安易な正義感で断定する意見で「炎上」するのか。
私は無教養と無責任だからだと思う。
昨今流行りの「ハラスメント」に過剰反応し、生命の本質すら見失う。
自分で責任を負う自信がないからか、意見はいつも誰かが考えた思想を利用しているだけだ。
叩くことで安易なカタルシスを得ることが、書き込む人の報酬だろう。
芸能人などにより名誉毀損で訴えられて捕まる人々は私が知る限り、社会でうだつのあがらないそれほど裕福には見えない人々だ。
フェミニストの旗手だった上野千鶴子があれだけ男性を非難していて自分はちゃっかり医者と結婚している。過激な意見はメシの種で本人は信じていなかった。信じてフェミニストという考えを利用していた人々はバカだったというわけだ。
同様の出来事に「クロワッサン症候群」がある。雑誌クロワッサンの記事を信じて、自立した独身を気取っていたら周囲に誰もいなくなったという話である。売れればいいと記事を書いたライター自身が「ひどい」という感想をもっていたらしい。
リモートで行われている強盗殺人事件なども無知な人がひどい目にあっている。
応募者は安易な常識どおりに考えるから、その裏をかけば簡単に犯罪を犯す。結果的に報酬は払われないで騙され、普通の社会生活が送れなくなる重罪の強盗殺人犯となる。
会社だってそうだ。都銀や証券会社なんて存在意義はないのにいまだに「親が言ってたから」などで安易に信用して財産を失う。報道されないだけだ。(2024年11月28日:ついに東京三菱UFJ銀行で貸金庫からお客の財産を10億円以上着服した女子行員が報道された。銀行が被害届を出していないらしく、逮捕すらされておらず名前もわからない。銀行とはこの程度の信頼性しかないカイシャなのだ)
その報道機関がぶっこわれているから、兵庫県知事選挙で前知事が勝利してしまったりする。誰もパワハラ事件の真相は取材しなかったということだ。私にとっては対岸の火事なのでいまだに関心がわかない。
今の日本は働くことが当たり前だし、セレブもセレブなりに働いているのにいまだに専業主婦を夢見ている間抜けな年増の女性が大量に存在するらしい。無職で年金も払っていないから、悲惨な老後が待っている。
お金をもっているいないとは関係ない。タワマン買って莫大な修理費に泣いていたり、介護付き老人ホームに大金払って入所した後、運営会社が倒産したりと自分の都合よく安易に人を信じると罰が待っている。
闇金ウシジマくんで闇金業者の常套句「借りたものは返すのが当たり前だろ」も日本の民法ではそうなっていない。なにもないと居直れば、借金はすべて棒引きである。貸したほうにも責任があるのだ。
世の中の人は簡単に「詐欺だ」というが詐欺罪は詳しく知っておいたほうがいい。なぜならば、騙す騙されるというのは資本主義下での犯罪の上でもっともグレーだからだ。銀行や証券会社がお客を食い物にしてもお咎めはない。実際に詐欺罪の検挙率はものすごく低い。詐欺はよくよく考えてみるに値する犯罪だ。大学生のころ高木彬光氏の「白昼の死角」を読んで以来、常に留意している。
犯罪や違法と断じるためには法律を犯したという「構成要件」が立証されねばならない。詐欺罪の場合、
- 欺罔行為(人を欺く行為)
- 被害者の錯誤(事実と認識が一致しなくなる)
- 被害者による財物の交付または財産上の利益の移転
- ①~③の間に因果関係がある
たとえばみんながすぐに言う、商品が期待通りでなかった、などは詐欺罪にならない。構成要件も考えずフィーリングで簡単に他人を罪状であげつらったり断定すると名誉毀損や威力業務妨害で訴えられたら逮捕されるので注意しよう。どちらも刑法なので警察が動く。弁護士に相談するべきだ。弁護士ですら判決確定前は「〜の可能性があると私は思う」としか言わないのだ。
いつも書いているが進学塾なんて私は詐欺罪の可能性があると思う。
社会で成功するためにはよくも悪くも常識を疑う必要がある。
常識は誰かが意図的に作ったものを無知な人間が信じ込まされているものがほとんどだからだ。
考えてみれば神が出てこないだけで新興宗教と変わらない。
いつも思うが、リベラルな憲法下で「職業はなにを選択してもいいですよ」「幸福を追求しましょう」という考え方は、考える能力のない人には酷なのだと思う。
江戸時代のように「職人の子どもは職人」「分をわきまえる」という考え方のほうが幸せに生きていける人は、今の時代でも一定数いると思う。
リベラルな社会で生き抜いていくには、人の言っていることを真実だと考えてはいけない。
たしかに真実だと信じれば自分は考えなくてすむのでラクだ。考えることが苦痛な人間は世の中の成果を得られないようにできている。
考え抜いて真実を見つけた人が成果を得る。それが今の世界だ。