「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を見た。
見ていて「あー、自分の人生観歪んでるよな」と強く感じてしまった。
今のアメリカの状態が6,7年経つと日本になるよなぁ、と思っている。
この傾向はずっと変わらないんだけど、それが良い方向に向かっているかというと、この映画を見て「違う」と言い切れるようになってしまった。
日本とアメリカは労働者の立場がどんどん似てきている。
有休が少ない、
高等教育は高い、
社会保障がプア、
犯罪者は二度と立ち直れない、
などなど。
根源的なところが似ている。
しかし、この映画に出てくる国は違う。
私なりに一言で要約すると
「独り占めしても人生は楽しくない」
ということのように思えた。
国をとおして分かち合っている。
アイスランドがバブル崩壊で大借金国になったことは記憶に新しいが、引き金を引いた銀行の偉いさんを全員有罪にし、国ががんばって借金返したという話しは知らなかった。(なぜか日本では一切報道されていないのではないだろうか?)
アメリカは「勝者でなければならない」国である。
アメリカ資本で厳しい会社がしばしば言う「Up or Out (昇進できないなら出て行け)」が極端ながら会社の人生観を表している。
日本では個人が明確な業績を上げることを嫌うが、逆方向に団体で無償の残業を喜んでやってしまう。
戦後、経営者と労働者の間でしばしば激しい戦いが繰り広げられ、勝ち取られた労働三法なんてものは組合幹部が出世への登竜門とされて、骨抜きになってしまった。
しかし、ヨーロッパ圏は違うようだ。
しばしばヨーロッパの人間は働かないと日本人は言うが、日本の悲惨な労働生産性を見てもまだそんなことがいえるのか疑問である。
その結果、日本の産業は車以外はほとんど競争力がなくなっている。
まだ過去の資本投下の結果で収支は目立って赤字にはならないが、働いている人たちは付加価値をつけられないので悲惨である。
パソコンメーカーからいつしか部品メーカーに転がり落ちても「日本の部品は評価されている」などというゆでガエルのようなことを言っているのだから惨めなものだ。
ヨーロッパの人間ももっと悲惨な経営者と労働者の戦いを繰り広げた。
結果、双方が納得しているのは「仕事は人生の一部だ」ということと「休まなければ人間は生産性が上がらない」ということだ。
日本ではどうだろうか?
いろいろ言い訳するが「人生は仕事の一部」であり、「休まないことこそ会社への誠意」となってしまっている。
それは悪い点だけがアメリカに似たのだと思う。
そしてなによりも、いつしか、日本人の労働者は自分の人生に責任を持たないで逃げることを覚えてしまったのではなかろうか。
ほとんどの男性が家庭の面倒ごとを「仕事だから」で逃げていく。それは自分の人生から逃げていることと同じってことにすら気づかない。
そういう男は逃げたつもりかもしれないが、家庭内の誰かからの顰蹙を買っている。
「俺はカネを稼いでいる」と威張るなら、最低年収一億円は稼いで家族に金銭面で我慢させないレベルになってから威張れ。情けない。
マイケル・ムーアの映画にしばしば出てきた言葉に「同じ国民、隣人の尊厳を守れ、大事にしよう」という言葉がでる。
これがもし「日本という国を守れ」というと同意する人が多いのかもしれない。
しかし「同じ日本人を守れ」と言われるとどうなのだろうか?
言うまでもなく国は民から出来ている。民なき国はない。
しかし国を守るというと威勢はいいが、民を守るというと議論になってしまう。
それも中途半端に。
ご存知かどうか知らないが、日本が模範とするアメリカは戦場で亡くなった兵士(国民)の遺体は必ず遺族の元に届ける。
その鉄則が国民に戦争を強いる代償のひとつだ。
しかし日本はいまだに世界中に旧日本軍兵士の遺体をほったらかしたままだ。南京問題だって731問題だって国家で歴史書を編選しようともしない。
威勢のいいことを言っていても、義務を果たしていると思えない。
戦後でもいろいろやらかしている。
ブラジルに新天地があるとウソをついて、棄民してみたり。
北朝鮮に新天地があるとウソをついて、移住させてみたり。
日本の政府の役人は基本的に信じてはいけない。
ちょっと前にシャープが左前になった理由のひとつに、中国に工場を作ることを認可しなかった。困ったシャープは堺なんていう人件費の高いところに工場を作ってしまい息の根が止まった。
東芝の半導体部門の売却先も技術が流出するなんていう間抜けなことを真剣に信じて、中国に売らないように東芝に茶々を入れて、潰れかけの会社が首吊りそうなのに足を引っ張っている。
東芝の倒産を助長しているようなものだ。
加計学園でもえこひいきしたのはミエミエで文書すら残っているのに、それに難癖つけてチャラにする。東京地検特捜部も見て見ぬフリ。
日本の政府の役人は基本的に信じてはいけない。
第二次世界大戦で負けた理由は明白で、戦況なんて無関係にこのような官僚主義に終始し、「非常時」という言葉で国家規模でのブラック企業となってしまったからだ。
だから天皇陛下が「戦争を止める」といわなければ、自分たちでもやめられなかったのだ。
官僚が全員引き継がれたため、そのメンタリティは延々と引き継がれている。
身近な人に優しくしようという考えよりも、日本の官僚は自分のことだけがかわいい。
一方でいえることは、国民の多くが考えることが嫌いだ、とは傾向としていえるかもしれない。
でもそれはきっと日本の教育が考えることを禁じているからだろう。
大前研一が言っているように役人が日本に偏差値というものを入れて、それで人を測定するようにしたから多様性はない教育となった。
その実例を挙げる。
先日、テレビ番組で錦江湾を渡る遠泳をやる小学校の準備授業をやっていた。
完璧に頭にきた。
最初からひどい。
一応、生徒に「錦江湾の遠泳をやりたいもの」と手を挙げさせる。
子供は周囲に流されるし、先生の顔に「やれよ」と書いてあるから全員手をあげる。
それで教師はいう「お前たちは自分で希望したんだ」
どうせ嫌だと行ったら「なぜやらない」というくせに。
これ私文書偽造並の言質のとり方ですわ。
その後、若いバカ教師はいう「この遠泳には命がかかっているんだから笑うな」
そもそも錦江湾を最初に泳いだ人間は命がかかっているから真剣にトレーニングしたんだろうか?
そんなわけない。
つい真向かいの桜島まで泳いでいけそうやんけー、いっちょやったるか、くらいの好奇心で泳いだに決まっている。
遠泳するならするで、「みんな自分がどうやったらあそこまで行けるかな?」と聞くべきだろう。
教師の示す答えありきで、それを問答無用で「真剣にやれ」って奴隷養成所でしかない。
あまりのひどい教育ぶりに途中で見るのをやめた。
5メートルしか泳げないなら泳げないでいい。
問題はその欠点をなくせ、という発想だ。
これは実は欠点のない工員を作る発想だとわかっているのだろうか?
ここで習った子どもたちは人生の答えのない問題にどうやってアプローチしていくのだろうか?
だから誰かに怒られたらずーっと我慢する(ブラック企業で)、彼女に振られたらどうしていいかわからなくなる(自殺する)子ばかり増えるんじゃないのか。
かように日本の教育で「どうやれば隣人を思いやることができるか」考える国民ができることは到底ムリだろう。
日本はずっと2000年以上続いているからスゴイとかいう意見があるが、
とんでもない間違った制度を後生大事に2000年以上知らん顔してきた無能国家という味方もできるのだ。
逆にいえば、そういうことを考えることができる人間こそがビジネスチャンスがたくさんあるということなのだけれども、楽しい気持ちにはなれない。