時々、拝見するちきりんさんがAIについて書いている。
さすが元コンサルティング会社におられたらしく、ファンディングする構造が80年代と違うとおっしゃる。
でも、コンピュータの向こうに怪物の影を見ているのは技術のわからない人間の限界か、とも思う。
長年、コンピューターに向かって仕事をしてきたのだが、おもしろいね、と思うことのひとつに「形を変えた本」である、と思っていることがある。
コンピュータの動作原理は、始まりのノイマン型の具現化ENIACからほとんど変わっていない。
メモリーから命令を取り出し、一度計算をし、メモリーに返す。周辺機器とのやりとりをするように命令を出す。
これが一秒間に5千回程度だったが、今や一秒間に100億回を超える計算ができる。(iphone5sですら)
この膨大な計算力で、どこかの誰かが考えた思想を目の前に見せられるとユーザーは圧倒され、その向こうになにかの意思を見る。
科学者といえども人間であり、理論だけで動くわけじゃない。好奇心、感情や直感で動く 。
なにかの意思が見えた気がすれば、それを掘り下げていきたくなる。
が、やがて命令群には意思の保管のしようもないことに気づく。
次に始めることは「いかに人の真似をさせられるか」だ。
これは簡単だ。莫大な計算力をもってすれば人の思考を真似ることは可能だ。チェスの対戦プログラムがそうであるように、過去の棋譜すべてを整理、記憶し、数学的アルゴリズムでとるべきでない打ち手を排除する。
たいへんな準備ではあるが、そのプログラムの中に目的も意思もない。こめられた意思は本と同じで著者の意思だ。
AIに知性を期待することは、本自身が知性を持ちえるか、ということと同じな気がする。