大東亜戦争については、巷ではいろんな評価があり、靖国神社問題なども時々、取り沙汰される。今年、2010年は戦後65年のせいか、戦争を生きた人が戦争について語ることが多かったように思う。吉永小百合さんが、戦争の詩を朗読されているのも聞いた。
私の亡父は、原爆手帳を持っていた。そういったところでは、私は被爆二世であるかも知れない。父「高尾 貢」についてはインターネット上に私が書かない限り、なにも残らないであろう。それゆえ父から聞いた戦争の話しを書き残しておくことは、息子の仕事のひとつかもしれぬ。
私の父は正確にいうと原爆の直撃を受けたわけではない。当時、理工系の学生だった父は故郷の福山の農家に米をもらいに帰っており、翌日、広島の地を踏んだのである。
(父が亡くなった時に、私に後悔がないひとつの理由は、父が元気なころにいやがる妻と孫を強制的に引き連れ、高尾家代々の地、いわゆるルーツを訪れたこともある。自分の子供が根無し草にならないようにするのも親の勤めであろう。)
原爆投下翌日の広島の状況を、父は生涯語らなかった。「この世の地獄の話しを繰り返してなんになる?多くの人が言ってるとおりだよ。」父はそういっていた。放射能のことは知らずに、多くの学友の亡骸を荼毘にふし、祈ったとだけ聞いた。それで毛髪がごっそり抜けたとか。
戦争について、父からは単純な言葉しか聞いたことがない。学校で戦争の話しが出ると父に聞くが、語らなかったのだ。せいぜい、
「戦争はしてはならない。どんな理由があろうとしてはならない」
「後から英霊とかいわれて紙きれ一枚入った骨壷をもらって、どうしろというんだ?」
「昨日まで天皇陛下万歳と叫んでいた人が、翌日から闇米を売るのに必死になる」
「友達の多くが広島の四十一連隊に入って死地を転戦させられ、ほとんどが死んでしまった(あとから調べたら、本当に玉砕であった)」
「遺骨集めも大事だが、死にたくて死んだやつなんていない。みんな普通の仕事もった人だったんだよ(遺骨の魂の議論に反感があったようである)」
父からは、マスコミにおける大東亜戦争の議論につきものの、正義とか遺族の英霊とかいった話しは一切なかった。この文章の最後で総括するが、そいういうイデオロギーを信じていないのだ。
当時の認識はどうやら、マスコミにあおられ戦争に突入したけどね、という程度だったのだ。学校で教育勅語とか、天皇の写真を飾った建物を敬えとか、不敬罪とか、憲兵がいるから形式的にはしたがっていたが、理工系だけに八紘一宇なんて聞いた端から、疑問をもっていたのである。「あるわけない」とは聞いた。
今の日本では「靖国で会おう」という言葉が美化されているが、父の言動から見て、戦争当時、それを信じていた人はむしろ少ないように思う。とくに広島なんかに住んでいた人間からすると、大本営発表と爆撃の数が全然合わないという事実があるだけに、戦争に勝てるとは考えていなかったようだ。
東條英機と関東軍については怒っていたな。よく「そんな関東軍みたいな好き放題しちゃいかん」と怒られたものである。
大正15年(1926年)生まれの父は、1945年に原爆に会ったのだから、当時19歳である。
母は昭和6年(1931年)生まれであり、20歳で結婚したといっていたので、父は25歳で結婚したことになる。その後は高度成長期。
父は染料工場で研究していたから手には染料がたくさんついていた。その手で岩波文庫をめくるから、本にはみんな色がついていた。昔、私が幼少のころ家にあった岩波文庫は左寄りのものが多かったのも確かである。だからといってまた、それを信じていたわけでもないようだ。
また、私が生まれるまで身寄りのない子の面倒も見たことが数度、あったようだ。
おそらく昭和初期を生きた普通の国民は父と似たり寄ったりで、天皇陛下についても共産党についても流行すると、取り入れはするが簡単には信じていない。国民はそんなにバカじゃないのである。
むしろ残された書物や言葉から、当時はこうだったに違いない、あーだったに違いない、という最近の人々の意見に、私は違和感がある。
だから、生き残った人達が死ぬ前にやることがあると声をあげておられるのかも知れない。よくよく聞いておくことだと思う。