日本人は無宗教だ、私は宗教をもっていない、
と、とても多くの日本人がいいます。そして
「それって宗教ですか?」「宗教っぽい」と宗教はアブナイものだと言う空気が漂ってます。
宗教がなんなのかをまるで知らない無知のなせる技で、宗教への無理解は人間をわかっていないということです。
宗教に少なからず関心をもつ俺が宗教とはなにかを明らかにしていきます。
読後は世の中のみかたが替わり、タイトルの意味がわかるハズ。
神と宗教
宗教というと次に出てくるものが「神様」と決まっていますよね。
神を信じることが宗教だとあなたも思っていませんか?
だから「あなたは宗教をわかっていない」というのです。
宗教の定義に神様は必ずしも必要ないです。
信じられないかもしれませんが、そこいら中に建物のある仏教に神様はいません。
開祖のブッダ(お釈迦様)は亡くなるときにこう言い残しました。
「自灯明、法灯明」
真っ暗な人生を生きていく上で自分を明かりとしなさい、私の教えを明かりとしなさい。
私自身を拝んではいけない。
仏教は苦である人生をどのように生きて涅槃にたどりつくかを示した宗教だけれども、神様はいないのです。
神様は時代が下ってから付け加えられた存在です。
そこいら中に祀ってある、大日如来、釈迦如来、観音菩薩、不動明王、帝釈天、弁財天、八幡菩薩、などなどは仏教の定義によるならば、仏道における先輩であって神様じゃない。密教によりヒンズー教の神様が混在し、日本では神仏習合により日本古来の神様もすべてグチャグチャに日本仏教に混ぜてしまったので、みんなが勘違いすることは当然なんだけれども、仏教を始めたお釈迦様は神様の話なんかしていません。
こんな仏教の基本も多くの人が知らないですよね。
そんなこと学校では偏差値に関係しないから教えないもん。
単なる例の話なので、先を続けます。
このようにお釈迦様が考えた理想と人間が作り出した現実が違う理由は、人というものは神様のような存在を作ってすがりたい、という本能とも言えるものをもっているということでしょう。
だから宗教を語るとき、必ずしも神様はいなくてもいいのです。
科学教
日本にはびこる一大宗教が「科学教」
「俺は無宗教だ」と言っている人もこの宗教に入信している隠れ信徒はとても多い上に自分が信徒であることにも気づいていないのがおもしろいです。
たとえば「論文になっている」というと、正しいと思っている。論文なんて10年経ったら6割は間違いだったとわかるんだけれども、正しい真理を発見するための必要コストだということで学者間では誰も責めないだけ。
たとえば誰か専門家っぽい人が「これが正しいと言った」とすると未来永劫の真理だと思い込んでいる。科学とは誰もが学べばそれを理解できるようになっているからこそ科学なのに、そのプロセスをすっとばして人の肩書を見て信じてしまう。
科学的態度とは「仮説を反証できないか調査して、反証がなければ暫定の真実とする」という極めてクールな態度のことです。
なにもかも疑っていると生活に疲れてしまいますが、大事なところは自分で調べて理解すればいいのにそれをサボって信じてしまう。
「誰々が言ったから」という権威主義は宗教です。
ホントウにあなたは宗教に入ってませんか?誰かの言うことを鵜呑みに信じていませんか?
無宗教は無倫理
一方で宗教を持ち出さなくても人は倫理観というものをもって生きています。
- 他人に傷害を与えたり殺してはいけません
- 人には親切にしましょう
- 財物を奪ってはいけません、
- 嘘をついて人から金品、財産を奪ってはいけません、
これくらいだと「常識」の範囲で宗教なんか持ち出さなくても当たり前だと思うでしょ?
その考えは甘い。世の中はとくに4つ目についてはとても寛容なのだ。
ネットの広告やテレビのCMで「大げさな。そんな効果あるわけないやん」って呟いたことないですか?一度でもあったら、嘘ついている会社や人はそこいら中にいるということじゃないですか。
芸能人が「これはいいですよ」というと無邪気に信じてしまうバカはいつの世にもいますよね。事務所の人も食わせないといけない玄能人が取り上げること、話すこと、すべて商売で報酬をもらっているなんて当たり前じゃないですか。
じゃぁ、CMやっている会社や芸能人に「嘘をつかないで」というとかえってくる答えは決まってますよね。「法律に違反していないから、おまえの訴えが間違っている」
今の日本が生きづらいのは、このように倫理観を法律で補おうとするからなんです。
資本主義が広がっているところでは同じ問題が起きています。
ビジネスと倫理観は別物だという考えが確立しているからです。
ですから人としてどうか?ということも倫理観のない資本主義では問題なくできます。
リストラだってそうじゃないですか。経営の失敗という誰が見ても明らかな現象が資本主義により隠され、弱い従業員がクビになり家族もろとも露頭に迷う。法律上、経営者はなにも責任を取らなくていい。
バングラデシュで毒物撒き散らして染めた布で服を作って日本に持ち込んだって、なんの問題もない。
法律に違反しない、犯罪でないならばなにをしてもいい
資本主義ではこれが正義です。
でも個人的に違和感がある理由は倫理観がないからです。
会社ぐるみの犯罪で逮捕される人がいます。おそらく本人は警察の事情聴取まで自分がやっていたことが犯罪だとは思っていないはずです。組織にとっての正義だと思い込んでいるからです。
倫理観どころか法律に違反していると認識している人が内部告発をすると、日本ではどうなるでしょうか?利害のまったくない人は「勇気ある行動だ」と褒めるでしょう。しかし利害のある周囲の人は「余計なことをしやがって」「裏切り者」と罵り、村八分にします。
資本主義下の倫理観なんてこんなものです。
これらは現在の日本において、資本主義での倫理観が薄い人々が多いことを示しています。
余談ですが、戦前の日本人は国家神道という宗教をもち倫理観を持っていました。ここでは正しかったか間違っていたかの議論はしません。「日本人とは」という倫理観をもった人々がいたという事実の指摘です。
倫理観を与えるものが宗教
日本ではほとんど報道されませんが、宗教国家はこの地球上に存在します。
中東のイスラム圏に多いですね。イスラム教に則ったイスラム法で運用されている国。
資本主義では当然である利子は、イスラム教では禁止されています。(抜け道はありますけど)
つまり「利子のような働かないで暮らせるような制度は倫理的でない」と決めているのです。
宗教とはこのように一定の倫理観を与えるものです。
残念なことに多くの宗教が倫理観を与える方法に失敗しています。それは「来世」を語ってしまったからです。
日本でもそうですが「いいことをすれば、神様に認められて次の世では楽をさせてもらえる」という宗教観ははびこっています。
わかりやすいんですよね。取引の概念ですから。
子供が「いい子にするから、これ買って」と親に言っている考え方となんら変わりません。幼稚園児でも理解できる。
わかりやすさを悪用して信者を自爆テロなんかにつっこませるわけです。
あれ指示している宗教家って絶対に地獄に行くと思う。
宗教団体のほうも一般人には、このわかりのいい説明で倫理を守ってもらおうと考えてしまったのです。
かくして本来はなにも必要としていない神と取引をすることが常識となり、日本人も神社仏閣で、お金を箱に投げ込んで「おら、ご利益よこせ。よこさないなら詐欺で訴えるぞ」と言葉遣いは丁寧であっても言うようになってしまいました。
神が喜ぶことをしてなにかご利益を引き出そうとする取引は世界中で試みられています。ここではそれが悪いことのように読めるかもしれませんが、倫理面から見ているからです。
日本人と呪詛の記事でも書いたとおり、それはそれで成り立っている方法です。
宗教の隠された目的
ところが大規模な宗教は修道院と呼ばれる大きな修行場を持ちます。
あれ、なぜ必要なんでしょうか?
神様と取引が可能ならば、建物にこもってなんやら修行している暇があるなら外に出て神の喜ぶ取引をどんどん繰り返したほうが偉くなれそうじゃないですか。
どの宗教も取引は「方便」だと知っているのです。
人間としてのレベルをあげていく方法は、バリエーションはあれど、内省し神、宇宙、人間へ思いを巡らせ、自分の定義を大きくしていくしかないのです。
それはひとりのわがままな自分のことしか考えられない人間が、異性と出会い、その人を慈しみ、子供が生まれ、子どもたちを自分以上に慈しみ、いつしか世界に気づき、見知らぬ人や世界を慈しめるようになる成長過程を圧縮して悟ることに他なりません。
自ら悟った倫理とご褒美付きの形だけ倫理では、レベルが異なることは仕方のないことです。
その人の倫理観がその人の行動を決める
多くの人が漠然と理解しているはずです。あなたにとって、なにか違和感のある人はやはり違和感のある行動を取る。最終的には似たような行動をする者同士のグループに貯まる。
これは個人にとどまりません。
2025年の今、ロシアはウクライナを攻撃していますが、ロシアは大ロシア帝国の妄想から離れられないのです。イスラエルはガザ地区の子供を殺していますが、イスラエルは神に選ばれた国だからなにをしても正義なのです。イランがレバノンを支えていますが数百年続いているキリスト教とイスラム教の代理戦争です。
誰もが自分の信じる倫理観で動いています。横から「間違っている」とか言われても聞く耳はもちません。
「神」すら人間に都合よく利用されている道具に過ぎないのです。
長い話でしたが、あなたが「人に多少の迷惑をかけても友達なんだからいいよね」という倫理観をもっているならば、「親しき仲にも礼儀あり」という倫理観をもった人とつきあわないことです。
なにが正義かという根本で折り合いがついていないのですから、話し合っても解決しないのです。
端的にいうならば「信じている神が違う」のです。
宗教とビジネス
最後になりますが、このようなことをいっている人は私だけではありません。
こんな本があります。
経営学の観点から宗教を見て、似ている点を議論している本です。
著者のどちらも著名人ですから、きれいに書いてありますが会社を経営している人は読んだほうがいいです。
なぜならばセンスメイキング(理念や経営方針への共感)を定着させる手法として宗教を見ているところがあるからです。
宗教とはスピリチュアルなフワフワした人間がやっていると思っているなら大間違いです。
メジャーになった宗教は普通のビジネスマンやサラリーマン以上に優秀な人間がいるからこそ、無から有を生み出しているのです。