サラリーマンのふり

ミュージカル「手紙」を見てモヤモヤ

東野圭吾さんの小説、手紙をミュージカルにした「手紙」を先日見た。

以下は本当に私の独断と偏見だし、小説を読んでいないので本当にこの小説の意図どおりの表現に対する感想になっているのかはわからない、とあらかじめお断りしておきます。

このミュージカルでは「犯罪者家族も罪を償わされる」と平然と言ってのけている。

「本当にそうかなぁ?」と疑問を持ちながら見ていた。

だって、本人の責任にまったく寄らないものについて責任を問うのは酷にすぎると思うからだ。

先日、認知症男性の列車事故裁判でJR東海が損害賠償を要求したが、最高裁の判例で「別居の長男に責任を帰するのは酷にすぎる」となった。

見ているウチに「ハッ」と気づいた。
これは差別と同様の構図だ、と。

部落などの差別はその出身地がたまたま、どこかで捏造された「部落」出身者ということで人を差別する。

この「手紙」の論法が正しいとするならば、部落出身者はその差別される運命を黙って受け入れて苦しめ、にならないか?

同様のことは、冤罪、誤認逮捕などでも起きる。
人は自分のことでなければ簡単に「犯罪者かもしれない」と言い、差別する。
差別される人々がどれほど理不尽な思いに泣いているかも他人事だから。

そう気づいた時、私はこのミュージカルが恐ろしくなってきた。

差別を仕方がないのだ、受け入れてひっそり生きろ、というのだから。

これでは家族はたまったものではない。家族の人権はどこにある?

対策は差別された人々と同様に、集まって声をあげるしかないのではないだろうか。

熱演してくれていた俳優さん達には悪いのだが、私にはとても後味の悪いミュージカルであった。

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